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『果てなき路(2010年)』 ~ 新鋭ミッチェル・ヘイブンによる果てなき自己言及パラドックスのミステリー映画 ~

ミッチェル・ヘイブンという未知の新進気鋭の監督によって制作された『果てなき路(Road  to Nowhere)』というミステリー映画は全編一眼レフのデジタルカメラ(Cannon EOS 5D MARKⅡ)によって撮られた世界初の革新的ともいえるデジタルシネマです。彼は現在活躍しているどの人気監督(例えばタランティーノ、リンクレーター、ウェスとポール・トーマスの二人のアンダーソン等)を軽く過去に葬り去るくらい若々しく先進的な映画作りを率先して行っています。小賢しい成功作よりもあえて自由で実験的で大胆な演出を実践し、たとえ危険を伴っても自身や俳優達のインスピレーションを積極的に選択するという今時珍しい職人気質の監督です。

(注:以下主に冒頭部分しか書きませんが完全ネタバレになります。尚、この映画は『レディ・イブ』と『ミツバチのささやき』のラストシーン、及び『第七の封印』の一部が直接引用されますので未見の方はご注意ください)


まずこの映画は「Road to Nowhere」と記されたDVDを監督自身がノートPCで再生させるところを、その原作者でジャーナリストでもある女性ブロガーがデジタルカメラで撮影するシーンから始まります。

この時注意が必要なのはノートPCのディスプレイに表示される画面が既にデジタル合成された偽りの画面という点です。ノートPCにカメラが徐々にズームしてそのディスプレイを全画面で捕らえた際には、観客は既にデジタルシネマのフレームのの中に取り込まれてしまい、DVDが再生する映画の中で物語の扉が開かれた後であることに気づきます。

尚、このオープニングが示しているのは以下の点です。

  • 映画において撮影する(shooting )という行為は全て現在進行形の現実の記録である。
  • 撮影された素材をディスプレイ若しくはスクリーンに映像として見せるという行為は既に過去の虚構の再現である。
  • ゆえに映画を撮る事と映すことを同時に行う事は現実虚構を、現在過去を、映画映画を追いかける無限ループの自己言及のパラドックスに陥る。

ここでいう自己言及とは劇中劇、メタフィクションと言い換えても良いかもしれません。作劇上使い古されてきたこれらの要素をもう一段深い階層まで行い、その自己言及の運動を破綻なく平素な描写で簡潔に描くこと。それがこのミステリー映画の自由で実験的で大胆な挑戦です。尚、勘の良い人は既にこの映画の犯人の正体をお気づきかもしれませんが、これは謎解きそのものよりも映画映画を追いかける自己言及の運動を楽しむタイプの映画ですので気にしないでください。


次にこのDVDで再生される『果てなき路』という映画は「ヴェルマ物語の扉を開く“窓”だ」というナレーションと共に、女性のカントリーミュージックをBGMとして、ヴェルマという女性がベッドの上でマニキュアをドライヤーで乾かすシーンから始まります。ドライヤーの過剰なノイズ音が電源のオフによって消え去り、夜の静寂が戻る中、中庭に一台の車が到着するのがヘッドライトの光によって屋内からのショットで示されます。警察無線を鳴らすその車から降りてきた警官と思しき男は車内のゴミをゴミ箱に捨てて玄関に向かい、部屋の中にいる別の男に会うのが屋外からのロングショットで示されます。

これらの絶えず一つのカメラ視点のみで構成される古典的ともいえる的確なショットの連鎖を経た後、突然一発の銃声が鳴り響きます。そして以下の出来事がほぼ同時進行でやはり的確なショットの積み重ねで簡潔に描写されます。

  • 女が家から出てくると同時に後述する男性のカントリーミュージックの主題歌が流れ出します。そして女は車でトンネルに向かいます。
  • 男は別の車でセスナ機のある飛行場へ向かい、操縦席に乗り込んで飛び立ちます。
  • 以下のクレジットタイトルが徐々に表示されます。

  TIGERS DEN STUDIOS PRESENTS

  CARY STEWART in

  A MITCHELL HAVEN PICTURE

  ROAD TO NOWHERE

  starring LAUREL GRAHAM

  EXCUTIVE PRODUCER JEREMY LAIDLAW

  PRODUCED BY MARISSA HAVEN

  WRITTEN BY STEVE GATES

  DIRECTED BY MITCHELL HAVEN


オープニングのタイトルバックに流れる音楽の歌詞は以下になります。言うまでもなくこの歌詞はこれから始まる物語の隠喩、というか予言のように映画の物語と符合します。

境界線に炎が上がった
逃げ場所もない
天使の街(ロサンゼルス)を夢見ながら
君は田舎町に残り悪事に手を染めている
許しはヘビの天敵だ 友よ
絶望の庭から追い出せるぞ
真ん中をまっすぐ見据えろ
道はこの先行き止まりでも
ハバナ旧市街のボロ競技場
ローマの古い教会
見覚えのある顔が頭から離れない
肉と骨がつながってるように
取引する相手を間違ってるぞ
ののしりと祈りのバランスを保ち栄光のハイウェーをひた走れ
道はこの先行き止まりでも
こぎ出せ小さな夢のボートを
上流に向かって力強く
大勢が待ってるぞ 警官だけじゃない
命がけの計画をかぎつけたんだ
君がまたがるのは目のみえない馬
カーニバルの回転木馬
愛のトンネルは決して終わらない
道はこの先行き止まりでも
灰は灰に返る 土は土に
君の血に流れるのはクスリとウオッカなのに
いまさらなぜ傷つく?
来る日も来る日も代償に追われ
天気予報士にもおびえる毎日
聖人ラザロでもう打ちひしがれるさ
道は永遠に行き止まりだから

クレジットタイトル後、女はトンネルの中で嗚咽を上げてむせび泣き、不安を爆発させます。そして再び車に乗りこんでで湖に向かいます。

女が湖に着くと湖畔の静寂の中に突如男が乗り込んでいたであろう飛行機が墜落します。

ここでDVD内の映画から現在のシーンに切り替わり、女性ブロガーが監督にこう尋ねます。

「あなたの映画ではヴェルマはこの後自殺する。報道とは違うみたい」

監督はこう答えます。

「こう聞きたいんだな。事実を元に撮ったのか、想像の産物か」


『孤独な場所で』(50年) のグロリア・グレアムならぬローレル・グレアム演じる映画の中の女”ヴェルマ・デュラン”は『ローラ殺人事件』(44年)のジーン・ティアニー、『ギルダ』(46年)の リタ・ヘイワース、そして『めまい』(58年)のキム・ノヴァクのようなフィルム・ノワールに出てくる典型的な二面性を持つファム・ファタールとして描かれます。男を破滅に導く運命の魔性の女。役になりきり現実映画境界が曖昧になる天才的な女優というのがローレル・グレアム(シャニン・ソサモン)に与えられた役になります。彼女はさらに別の役を演じている事が分かりますがそれはまた先の話です。彼女の出現は『銃撃』(66年)のミリー・パーキンスや『断絶』(71年)のローリー・バードのように、周りの男達の従来の関係性を決定的に変化させます。

男の方も別の役を演じますがこれもまた別の話しです。この映画では主役の女と準主役の男が一人二役を演じます。さらに映画内映画で二、三の事柄が起きますがそれぞれ別の視点から語られます。分かりやすく言うと『羅生門』的な展開です。

銃撃が起こり(“境界線に炎が上がった”)、

飛行機は墜落し(“命懸がけの計画をかぎつけたんだ”)、

果てなき路の終点である行き止まりのトンネルで犯罪が行われます(“君は田舎町に残り悪事に手を染めている”、“道はこの先行き止まりでも”)。

これはミッチェル・ヘイブンが撮影している映画の内容です。その映画の役者達が実際の陰謀に関わっていたとしたら、さらに映画を撮影している監督も別の監督により撮影されているとしたら、映画を撮る事と映画を見る事が合わせ鏡のように反復するとしたら。果たしてそれらは事実なのか想像の産物なのか。

これはデヴィッド・リンチ流の超自然的なミステリーではありませんし、奇をてらった異様な描写もありません。素っ気ないほどの簡潔な単純さでシュートされた映画のピースがあるだけです。そしてそのバラバラのピースを集めればちゃんと一枚の絵が完成するジグソーパズルのような映画です。種も仕掛けもドキュメンタリーのように全てさらけ出されていますので、最後に完成された映画をどう感じるかはあなた次第です。


そして最後にこのミステリー映画犯人犯行の動機が“エンドロールに来たぞ”という歌詞で始まるエンドロールカントリーミュージックと共に表示されます。

 

DIRECTED AND PRODUCED BY

MONTE HELLMAN

製作・監督 モンテ・ヘルマン

 

FOR LAURIE

ローリー・バードに捧ぐ。

 


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