『旋風の中に馬を進めろ(1966年)』 〜モンテ・ヘルマンによる一卵性双生西部劇二本立て③:旋風編

『旋風の中に馬を進めろ』 ~ 切り株を刻む音が止んだ時

砂漠を舞台に絶えず移動を続ける追跡劇が繰り広げられる『銃撃』とは対称的に『旋風の中に馬を進めろ』の舞台は山間部に限定されます。

中越しに駅馬車の襲撃のタイミングを伺う山頂からの俯瞰気味のショットから、眼帯と真っ赤なスカーフを巻いたハリー・ディーン・スタントンを筆頭とする五人組が駅馬車を襲撃し、その襲撃された駅馬車車輪旋回疾走する馬と供に『Ride in the Whirlwind』のタイトルバックが表示されて映画が始まります。

何か悲劇的で不吉な運命の歯車廻り始める不穏な予感を感じさせるオープニングですが、その予感は自警団による縛り首の死体をジャック・ニコルソンとキャメロン・ミッチェルを含む別の三人組が目撃することにより、さらに決定的になります。

そして駅馬車襲撃で傷を負った仲間と山間部の山小屋で身を潜めている襲撃犯のところに、たまたま通りかかった三人組が休息のため立ち寄り、彼らを不審に思いつつも一夜を過ごしてしまいます。

翌朝、裁判もなく私刑=縛り首を行う自警団は、たまたま一緒にいた三人組を含む全員を駅馬車襲撃犯とみなして山小屋を襲って焼き討ちにし、犯人を縛り首にします。この戦闘にいやおうなく巻き込まれた三人組の一人は亡くなり、残るジャック・ニコルソンとキャメロン・ミッチェルの二人は、縛り首を避けるため『ハイ・シェラ(41年)』のボガートの如く、あるいは村人の襲撃から逃れるフランケンシュタインの如く、山に逃げ込みます。

彼等が逃げ込んだのは山腹に住むひっそりとした一軒家で慎ましく暮らす老夫婦その娘(ミリー・パーキンス)の家です。そこは老夫の切り株を刻む音が不吉な運命の歯車の連鎖を断ち切り、逃亡者達を束の間の安息停滞に導く一種のサンクチュアリとも言える場所を提供することになるでしょう。

『必死の逃亡者』から『牛泥棒』ならぬ馬泥棒の犯罪者になりつつある彼らは、夜までこの家に身を潜めることにし、この慎ましく暮らす普通の家族と息詰まるサスペンスと攻防戦を繰り広げるはず...なのですが、特にそういう普通のハリウッド映画的に盛り上がる展開にならないところがこの映画のリアルでツンデレ(デレませんけどね)なところです。彼らは自分達が犯罪者ではないことを説明し、怪しまれないようにこの家族に普段通りの生活を装うよう伝えます。

そして老父は普段通り外で切り株を刻み、老母は家で家事を続け、少女は家で母親の手伝いをし、暇を持て余した逃亡者達はチェッカーというボードゲームに興じます。

二人がゲームをする間、老父が切り株を刻む音が一定のリズムを取って響き続けます。キャメロン・ミッチェルはこの音のリズムに誘われ、なぜ自分達がこのような境遇に陥ったのかをフラッシュバックで回想します。

そして束の間の安息と永遠に続きそうな停滞していた時間が、不意に切り株を刻む音が止むことにより断ち切られます。不吉な運命の歯車が再び廻り始め、取り返しのつかない決定的な運命の瞬間を迎えることになります。


この二本の一卵性双生西部劇はそれぞれ、砂漠地平面高低差のある山間部へ、追跡する者追跡される者へ、移動する者停滞する者へ、エキセントリックな黒づくめの謎の女は牛やニワトリを世話する素朴な田舎娘へ、ジョーカーのように残酷な黒ずくめの謎の男は無実の罪を着せられる素朴な青年へ、全く対称的ともいえる役割が与えられます。

同じような条件で背中合わせに生まれ落ちた双子達は、性格や性別の違う別人格の姉弟のように成長して全く別方向へ走り出し、僕等を全く見知ぬ場所へ誘って置き去りにして終わってしまいます。しかしその乱暴とも無愛想ともいえるリアルでミニマムで若々しさに満ちた映画達は不思議と祝福されたような幸福な映画体験をもたらしてくれるのです。


とまぁ、長々といろいろ書いてしまいましたが、この二本の映画は映画の予算や規模がその映画の面白さを決定づける訳ではないことを証明する普通に何度見ても面白い娯楽西部劇ですよ。その証拠にパリでは『銃撃』が一年間、『旋風~』が半年ロングランだったそうで、今でいうところの立川シネマシティでロングランしているマッド・マックスガルパンのように観客に祝福された人気作品だったということですね。

きっと。

 


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