『地獄の黙示録 劇場公開版(1979年/2001年リマスター)』 ~ 直線・円環・回想構造で蛇行しながら源流に遡行する映画のオデュッセイア

この映画が紛れもなく映画史に残る傑作であることに異論は無いのですが、とにかく映画とは無縁な地点から人を雄弁にしてしまうような物議を醸す引き出しが多く、かつ映画自体としてもバージョン違いが多く複数の解釈が可能であるというのが『地獄の黙示録』のやっかいなところです。

整理してみますと以下のバージョンがあることになります(画角違いやワークプリントや映画祭用のバージョン違いは除きます)。

①1979年70ミリバージョン(爆破無し・エンドクレジット無し)
②1979年35ミリバージョン(爆破有り・エンドクレジット有り)
③2001年特別完全版(爆破無し・エンドクレジット無し)
④2001年劇場公開版(爆破無し・エンドクレジット無し(*1))

僕が最初に見たのは劇場ではなく確かテレビの水曜ロードショーで見た②のバージョンと記憶しています。劇場で最初に見たのは2002年に公開された③でラストの解釈が今まで見てきた②と正反対なのでかなり面食らった記憶があります(ラストにカーツの王国の爆破とエンドクレジットが無く終わる)。

今では②は観客に誤解を招く間違いということでコッポラが正式に封印して無かった事になっています(僕もその誤解して間違った解釈をした観客の一人ということなのでしょう)。

さて、なぜ今更この映画の話かと申しますと、つい最近④が某立川シネマシティで『地獄の黙示録 劇場公開版<デジタル・リマスター>:元祖【爆音上映】』としてリバイバル公開されたのを見てきたからです。

改めてこの映画を見直してみますと、所々忘れていたところ(ワルキューレのシーンは“Shall We Dance”のセリフで始まるとか)や重要なところを見落としていたことに気づきましたので、その点を書いてみたいと思います(※以下ネタバレですがちゃんと映画を見ていた方には今更な話かもしれません)。

オープニングとエンディングの円環構造

今回久しぶりにこの映画を見直して一番びっくりしたのがオープニングのマーティン・シーン演じるウィラード大尉が(本当に)酩酊して黒パンツ一丁で鏡を割って拳に怪我をするシーンの前に迷彩メイクのウィラードの顔が現れるところです。物忘れの酷い僕はこの重要なシーンをちゃんと見ていなかったか、見ても忘れていたようです。

予告篇やCMでも印象的なあの迷彩顔は時系列的にはウィラード大尉がカーツ大佐と対決する終盤のクライマックスまで現れないはずです。その終盤の迷彩顔がオープニングに登場していたのですから驚きです。

つまり編集によってラストのウィラードがオープニングに使われていた訳です。さらに詳しく見るとこの映画の最後はカーツの”ホラー、ホラー”のセリフと雨の降る音の中(「ジ・エンド」の歌詞”waiting for the summer rain”と符合します)カーツの王国の遺跡像とウィラードの迷彩顔がオーバーラップしたカットで終わります。

このラストカットにオーバーラップする二つのイメージ(カーツ=ウィラード)がオープニングで使用されていたことになります。つまりエンディングとオープニングが一種の円環構造を意図して編集されているのです。

これはドアーズの「ジ・エンド」の音楽と共に、ラストのウィラードによるカーツ暗殺がオープニングの時点で予言されていた演出とも言えます。

ちなみにあの印象的な砂埃とヘリコプターが舞ってジャングルの爆破と共にドアーズの「ジ・エンド」が流れ出すファーストカットはウィラードの過去の記憶でも未来の予知夢でもなく、たまたまゴミ箱に捨ててあった爆発前の不要な処分用フィルムを見たコッポラがドアーズの音楽と合ったのでそのまま使ったという単なる偶然だそうで、ウィラードの精神への奇妙な導入部となるイメージシーンだそうです。

しかしこの映画が本来の意味での円環構造(『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のような回想シーンによる円環や『セリーヌとジュリーは船でゆく』のようなループ構造による円環)かというと、そんなことは時系列的に絶対に有りえません。どちらかというと川を遡るという直線的で単純な構造を持つ物語です。それではこの円環構造のもたらす意味は何なのか?そのことを考察する前に、さらにウィラードのように蛇行して映画を見て/聞いて/遡ってみる必要があります。

≪オープニングのウィラード=カーツの王国の遺跡像、及びウィラードの迷彩顔≫ 

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 ≪ラストカットのカーツの王国の遺跡像=ウィラードの迷彩顔≫ 

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モノローグによる回想構造

この映画には(最近亡くなった)作家のマイケル・ハーによるナレーションが全編に渡って入っています。このウィラードによるモノローグは蛇行が多いこの物語において状況・心情説明として非常に観客の理解の助けとなる一方で、よく聞くとリアルタイムの状況・心境説明とは別に、回想形式で始まるモノローグが混ざっていて混乱します。というか基本回想モノローグです。例えば冒頭の以下です。 

望みはいつか叶う。

俺は任務を望み、それは突然もたらされた。ルームサービスのように。

特別な任務だったがそれを終えた時二度とごめんだと思った。 

本当の地獄を俺はまだ知らなかった。

俺の任務は蛇行した川を数百キロ遡り、カーツ大佐を追うこと。

俺がカーツ大佐を語る人間になることはサイゴンに戻った時から決まっていた。

俺とカーツの人生は切り離せない。

カーツの人生が懺悔録なら俺のも同じだ。  

思いっきり過去形の回想ですね。しかも「カーツ=ウィラードの懺悔録」と非常に重要な事をさらっと言っています。

そしてこのウィラードのモノローグは後半クライマックスの以下のカーツのセリフと呼応します。 

気掛かりなのは私が目指したものを息子が理解できるかだ。

私が殺される運命にあるなら誰かを家にやって息子に全てを伝えて欲しい。

私がしたこと、君が見たことを。

私が何より嫌悪するのは偽りがまとう腐臭だ。

君に私が理解できるのならばこの願いをかなえてくれ。

つまり観客(=ウィラード)が今まで見て/聞いてきた映画は、カーツが伝えたかった事(偽りがまとう腐臭)そのものというメタ映画的な視点がここで披露されています。そしてその事を伝えて欲しいというカーツの願いをウィラードが冒頭から懺悔録として叶えてきたというのがこの映画の隠された円環・回想構造の意味です。

ここでマイケル・ハーが雇われたいきさつをwikiから引用します。

撮影終了後の1978年1月、制作会社のゾエトロープ社は作家のマイケル・ハーに電話し、ハーの『ディスパッチズ』(1977年)に基づいたナレーションを書いてもらうよう依頼した。ハーは、自著に書かれた言葉など「まったく使い物にならない」と答え、それからコッポラと共に1年かけて最終稿を完成させた

撮影時の脚本にないものが撮影終了後に付け加えられたみたいですね。つまりこのモノローグに時系列的な正当性は無く、後付で実際に役者が即興的に喋ったセリフを正当化すべくもっともらしく体裁を整えるために付け加えられたものだとも考えられます。つまりカーツの遺言のセリフを有効に、かつ強化するために「カーツ=ウィラードの懺悔録」という冒頭のモノローグが追加されたとも推測されるのです。 

単純で直線的な構造を持った物語

この映画は本来企画の時点では、少なくともジョン・ミリアスの脚本の段階では単純な直線構造を持った物語であったはずです。ジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』を原作に、物語の舞台をベトナム戦争に移した現代のオデュッセイア

A地点からB地点へ、

川のふもとから源流へ、

現代の冷房や食べ物が完備された物質的に快適なトレーラーから原始時代の王国へ、

一人の男が川を遡って敵を倒して勝利する戦争映画。

ジョージ・ルーカスが監督を予定されていた時点では、16ミリでヘリコプター2台で北カリフォルニアで撮影するドキュメンタリータッチの映画を構想していたそうです。
つまり当初企画の時点では低予算でも可能な直線的な構造の脚本だったはずです。

その企画を引き継いで、全く正反対な『史上最大の作戦』や『遠すぎた橋』のようなハリウッド戦争映画大作を装うようにブラッシュアップすることがフランシス・フォード・コッポラの野心的な欲望であったのでしょうが、当初予定されていたはずの17週間の撮影が別に一本の映画(*2)が出来るほどの災厄が襲って61週間(1976年3月から1977年5月)にも伸びて破産の危機に陥るとはコッポラも想定外であったはずです。

しかもその後編集にも2年余りの時間が掛けられ、平行してナレーションに1年もかけられています。『スター・ウォーズ』のような特撮映画ならともかくポストプロダクションに一本の映画が作れる位(*3)の歳月が費やされるというのは尋常ではありません。

つまり当初は直線的に単純であったはずの構造が時系列的に即興的に構想を肥大化させて順撮りでラストの答えを探していく内にベトナム戦争のように泥沼化し、その混乱を収拾するために2年かけて編集による円環構造とナレーションによる回想構造がもたらされたと考えられるのです。

なぜ1979年劇場版のエンディングはカットされたのか? 

ここで冒頭に書いたエンディングのバージョン違いによりる解釈の違いに関して考察してみます。
エンディングでカーツの王国が爆破される②のバージョンは非常にハリウッドの巨大戦争映画としては収まりがよいエンディングです。完全懲悪的に敵の王国を抹消して終わるのですから興業的に失敗の許されない超大作の戦争映画としては派手でふさわしい終わり方ともいえます。
ですが「カーツ=ウィラードの懺悔録」の映画とし円環・回想構造を取る映画としてはここで悪の帝国を爆破してきれいに終わってもらっては困るのです。ウィラードには泥沼化して疲弊したアメリカ軍同様、冒頭に戻ってカーツの遺言を懺悔する仕事が残っているのですから、主題論的にも②のバージョンで終わるのはカーツ=ウィラードの解釈ではありえません。仮にコッポラがもともと①をディレクターズ・カットとして作っておいて興業的な点を考慮して②を作ったとしたら、今現在既に役目を果たした②を封印して無かった事にするのは当然の事だと思われます(②はコッポラ的には興業を天秤に迷った挙句、サービス的に日和った終わり方を選択したともいえます)。

直線・円環・回想構造で蛇行しながら源流に遡行する映画のオデュッセイア

さて、冒頭に述べたように僕はこの映画が紛れもなく映画史に残る傑作だと思っていますし、オールタイムベストに入る程大好きな映画です。たとえこの映画が撮影後に編集やナレーションやエンディングの差し替えといった小手先の瑣末な操作をしなかったとしても(この戦略的操作がコッポラとマイケル・チミノの明暗を分けたのですから効果はあった訳ですが)、やはり映画それ自体としての強度を持った傑作として評価された作品だろうと思います。
ワルキューレを奏でて海面スレスレを横一列で飛行するヘリコプターやキルゴア中佐、
スージーQを奏でて闇の中の光のステージで踊るプレイメイト
静寂な青いジャングルの中から現れる虎と絶叫するフレデリック・フォレスト、
サティスファクションをボート上で踊るラリー・フィッシュバーン、、
黄昏た夕日の中チーフを川に沈めるサム・ボトムズ
ジミヘンっぽいギターの中でドラッグの幻覚のように美しい照明弾があがるド・ラン橋、
霧の中の川面を原住民を切り抜けてゆっくりとカーツの王国に踏み入れるボート、
支離滅裂なセリフと演技が全く似合いすぎるデニス・ホッパー
暗闇の中からぬっと頭を突き出してひたひたと頭を手で拭くマーロン・ブランド

これら生々しく捉えられた官能的な数々のシーンは一度見たら忘れることはできません。

フランシス・フォード・コッポラがラストの決まらぬまま答えを探して直線・円環・回想構造で蛇行しながら源流に遡行したその映画制作のオデュッセイアの辿りついた先は、今でもその輝きを失ってはいないどころかますますそのアメリカ映画としての頂点を誇っています。 そしてこの『地獄の黙示録(1979年)』と翌年の『天国の門(1980年)』がアメリカ映画が到達した一つのピークで、それ以降は衰退の一途を辿っているというのが僕のアメリカ映画に対する長いスパンで見たパースペクティブの感触です。

*1:最近NHKで放送されたものはエンドクレジットのみ有り

*2:詳細は『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録(1991年)』(Blu-Ray BOX化に伴いソフト化)を参照

*3:実際マイケル・チミノは後発の『ディア・ハンター(1978年)』を作ってその年のアカデミー賞を席巻


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