『ガルシアの首(1974年)』 ~ 跪き横たわる女と、復讐する男と、首の三角関係が織りなす行きて帰りし怒りのデスロード

『怒りのデスロード』という某映画のサブタイトルは「激怒(フューリー)の“怒り”」と「ロードムービーの“ロード”」を「死の“デス”」で繋げるというのですから、なかなか悪くない邦題ではないでしょうか(“怒りのフューリーロード”だと同語反復になりますし、ただの“フューリーロード”だと味気ないですし)。でもこのタイトルはこの映画にこそふさわしいと思うのです...と、どうでもいい話はどうでもいいので置いといて。 

下半身の無い女と、復讐する男と、上半身も下半身も何も無い首

たいていの人間の状態は立っているか、それ以外(座っているか横たわっているか寝ているか)しかないのですから、ことさらに映画の中でそのことを意識して見る必要は無いかとは思いますが、サム・ペキンパーの『ガルシアの首(1974年)』に関しては常にその状態を意識せざるをえない映画となっています(はそもそも上半身も下半身が無い状態ですので立っても座ってもいない存在といえるのでしょうが、それも果たして本当にそういえるのかどうか...?)。

というのもこの映画は、白い服を着た年端もいかぬ若い妊婦がアヒルや鴨が泳いでいるような平和で静かな湖畔に足を沈めてキラキラと波紋を広げながら、大きくなったお腹をさすりながら横たわっている印象的なシーンから始まるからなのです。

この暴力映画の巨匠で血まみれサムと称されたりもするこの監督の「Bring Me the Head of Alfredo Garcia」という禍々しい題名を持つ映画の冒頭シーンとしてはなんとも拍子抜けするほど牧歌的で美しいシーンなのですが、まずはこの下半身の無いが足を湖畔に沈めた状態で横たわっているという構図が意識的に描写されます。

(!WARNING:以下浜村淳の解説の如くネタバレします。未見の方が読むとこの映画の面白さを非常に損ないますので、すぐにブラウザを閉じて上記の文章を記憶から抹消し、まずは先に映画を鑑賞されることをお勧めいたします)

 


第一部:女は跪(ひざまず)き、横たわる

この映画は単純に2部構成となっており、ある決定的な事件を境に前半と後半に分かれます。以下重要と思われるシーンを記載しますが前半の番号が“行きし物語”としての伏線、後半の番号’(ダッシュ付き)が“帰りし物語”として前半の番号に関連した伏線回収のエピソードという構成で記述します。

 

①若い妊婦の女

まず若い妊婦の女跪かされ、大地主である父親から娘をかどわかした男の名前がガルシアである事を強制的に喋らされます。父親がこの男のに100万ドルの賞金を懸けるというのが物語の発端です。

 

②酒場の娼婦

大地主の命を受け、おそらくゲイであろう二人の男がガルシアの写真を持って酒場に聞き込みにやってきます。この酒場のしがないピアノ弾きがウォーレン・オーツ演じるベニーという中年のオッサンでこの映画の主人公です。ゲイの男はおそらく娼婦であろう女が男の股に手を伸ばした事に反応して殴り、娼婦は床に転がり横たわり倒れます。ベニーはサングラス越しに彼らを見つめ、世間話から初めてガルシアを探せば金になる事と雇い主の連絡先のホテルを聞き出します(帰り際『黄金』という名の男は「皆殺し」という曲をリクエストし、後半ベニーはそれに応えますす)。

 

③ホテルでの雇い主達との商談

ホテルでは雇い主の男と会計士っぽい男と先の酒場の二人組と用心棒達がそれぞれの場所に座っています。ベニーは最初の情報料千ドルから、殺した証拠にを持ち帰る事を条件に報酬を一万ドルに値上げする事に成功します。

 

④歌手である恋人の情婦

ガルシアに懸けられた賞金に目がくらんだベニーは、ガルシアとも関係のあった自分の情婦(娼婦)のエリータ(イセラ・ヴェガ)と共に、既に事故で死んでしまったというガルシアの遺体を求めて彼の故郷へ向かう事を決めます。ベニーのアパート内でベッドで裸で横たわっているエリータに対してバスケットに食事の準備をしてピクニックに行こうと渋る彼女を誘います。

そして男は上機嫌で車を運転して出発し、女はその隣でギターの弾き語りで歌います。そのピクニックの途中でエリータはベニーの膝に横たわって旅行したい土地の話しをします。木陰で二人は座ったまま将来の事を話し、ベニーはエリータにプロポーズします(この仕事が終わったら俺達結婚するんだ!って、そ、それは...ヾ(´囗`。)ノ   )。

 

⑤バイカーに襲われる横たわる女⑤’立ちすくむ男の復讐

ガルシアの墓に向かう途中でクリス・クリストファーソン扮するバイカーでヒッピー風の二人組がやってきます。二人は銃でベニーとエリータを脅し、エリータをレイプしようとします。エリータは自ら跪いて横たわり男に身を任せようとしますがすんでのところでベニーが銃を奪い、二人を撃って彼女を助けます。

 

⑥シャワーに打たれ跪く女

結婚を誓った二人は夫婦として安モーテルに泊まります。裸のエリータが跪いた状態シャワーを浴びる中、ベニーは彼女に涙目のクローズアップで「アイ・ラブ・ユー」と告げ、抱きしめます(このホテルのシーンは冒頭からベニーのクローズアップ多しですので二人の感情の高まりのピークかと思われます)。

 

⑦墓の中に横たわる女

次の日ベニーとエリータはガルシアの墓を暴きに行きます。ようやく棺を掘り起し、を切る瞬間何者かに襲われベニーは意識を失います(F.O)。

(F.I)目を覚ますと横にエリータが横たわって死んでいます。飛び散った『黄金』をかき集めるようにいくらエリータを起こそうとしても横たわったまま起きません。ベニーは「お前はここにいたいのか。やつがいいのか、チクショウめ」と言って起こすことを諦め、泣き崩れます。

 


第2部:男は女達を跪かし横たわらせた男達に復讐する

⑦’エリータの復讐

女を殺されたベニーはその犯人がグリーンの車の二人である事を突き止め、路上に車の故障で立ち往生してていた二人をみつけ、彼らを殺してを奪います。

 

②’ガルシアの親族と酒場での二人組

ガルシアのと逃避行するベニー「今でもあの女を独り占めか」とに嫉妬します(ここから先ずっとウォーレン・オーツの一人芝居が堪能できます)。車の運転中女の歌声が亡霊のように響きます。ベニーはハエのたかるに氷を与えます。途中でガルシアの親族に捕まり取り囲まれますが、ベニーを監視していたと思われる(②と③に登場する)二人組が来て撃ち合いになり、一人の老人とベニーを残して皆殺しの相打ちになります。

 

④’⑥’アパートに戻ったベニー

浴室で「よくここでシャワーを浴びた、知らんだろう」とに自慢するベニー。ドライアイスシャワーを与えます。ベッドに仰向けになり、シャワーの音と女の歌声が亡霊のように聞こえてくるのを聞きます(この後、実際の描写は省略されていますがを④の想い出のバスケットに詰め込みます)。

 

③’ホテルの雇い主達

女を跪かせて足を洗っている雇い主の男の元に想い出のバスケットの中に入れたを持っていくベニー。さらに大元の雇い主を聞き出すと同時に周りの会計士や用心棒等、全て皆殺しにします。

 

①’娘とベニーの復讐

大元の雇い主である大地主に首を届けるベニー。周りの用心棒を皆殺しにします。跪づかされた娘の「殺して」の一言で大地主を殺して復讐を完了します。

 


この映画は単純です。上記番号の順番を辿れば単純に“行きて帰りし物語”になっている事が分かります。そして妊婦や娼婦といった弱い立場の女達が男達に跪かされ、その権威的で暴力的な男達に対して呑んだくれの何もかもを失って負け犬の遠吠えの如くひとりごつ中年男がその復讐を行うという、極めて浪花節的で、任侠的で、センチメンタルでフェミニズム的(?)ともいえる怒りのデスロードな物語です(ペキンパーの映画は他もそうなんですけどファロス中心主義じゃなくてファロス中心主義者を悪役として皆殺しにする、あるいは罰を受ける映画なんだと思います。これはペキンパー映画の法則でありペキンパーの哲学であるかのようです。かといって女性にオススメできるような映画では全くありませんけどね)。

この怒りのデスロードの前半部分は跪き横たわる下半身の無いと旅し、後半は上半身も下半身も何も無いと旅します。そしてこのの間に女の歌声が亡霊のように(追憶のシャワーの音と共に)響きます。

ガルシアの首』はそんなセンチメンタルでロマンティックな泣ける男の映画です。

 


この映画で首を相手に一人喋る難しい役を演じたウォーレン・オーツは同じ年に撮られた『コックファイター(74年)』では全く喋らないこれまた難しい役を好演しています。同じ年にペキンパーとモンテ・ヘルマンの映画に主演するなんてなんとも奇特な俳優さんです。ペキンパー作品以外でも『銃撃(66年)』 や『断絶(71年)』のような他のヘルマン作品でシブくて味のある役をこなしています(残念なことに53歳の若さで心臓発作で亡くなってしまいました)。

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