スティーヴン・キングか深夜アニメみたいな泉鏡花の『昼春・昼春後刻(1906年)』と映画『陽炎座』謎記号の秘密

映画『陽炎座』に絵で一回、指で背中に書いて二回、最後のセリフで一回と計四回も出てくる謎記号「〇△☐」ですが、映画の中ではまったく説明がありません。

そこで原作泉鏡花の『陽炎座』を読めば何か分かるかと思ったのですが、そこにも記載がありませんでした。

というのも映画版『陽炎座』は泉鏡花の複数の短編原作をリミックスして脱構築したストーリーですので、原作の『陽炎座』は映画ではほんの終盤の一部分にしか使用されていないのです(なので映画版の謎の女である品子は鏡花作品のファム・ファタールを集大成した女ともいえます)。

ということで他をググってみたところすぐに見つかりました。『昼春』・『昼春後刻』という連作短編です。


 ※以下リンク先の青空文庫で全文読めます。 

泉鏡花 春昼

≪あらすじ(wikiより)≫

先先月より逗子に一室を借り自炊するという散策子が春の日中をぶらぶら歩きに出たのは、停車場開きの祭礼の日の騒々しさを避けてのことだった。途中、ある二階家に蛇が入り込んだのを見て野良仕事の老爺にその家へ用心するように言づてる。たどり着いた岩殿寺の柱に「うたゝ寐に恋しきを見てしより夢てふものは頼みそめとき――玉脇みを」と書かれた懐紙を見つけ、昨年寺に逗留した客人の「みお」なる夫人への恋慕の顛末を住職より聞かされる。

 

泉鏡花 春昼後刻

≪あらすじ(wikiより)≫

寺よりの帰途、散策子を待っていたのは玉脇みお、すなわち蛇への用心を言伝された家の女主人だった。女は散策子によく似た男への悲しい気持ち、もの狂わしい「春の日中の心持ち」を吐露。女の手帳には〇△☐が書き散らしてあり、散策子は蒼くなる。

 


※以下小説で映画に関連する部分を書きます。

『昼春(1906年)』

・「玉脇みお」は映画での「玉脇品子」として苗字が使用されています(映画では加賀まりこの名前が”みお”ですが、本作との関連は特になさそう)。

 

・中盤とラストに二回出てくる小野小町の和歌が書かれた橙色の手紙もここからきています(以下第五章から)。

扉の方へうしろ向けに、大きな賽銭箱のこなた、薬研(やげん)のような破目の入った丸柱をながめた時、一枚懐紙の切端に、すらすらとした女文字。
うたゝ寐に恋しき人を見てしより
夢てふものは頼みそめてき
――玉脇みを――
 と優しく美くしく書いたのがあった 

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”これは復讐の歌だ”と松田優作が呟くのは映画オリジナル(の解釈)でしょうね。

 

・ドッペルゲンガ―が出てきて記号を指で書くシーンがあります。映画では大友柳太郎さんが話した後に描写されるシーンです(以下二十三章から)。

 釘づけのようになって立すくんだ客人の背後から、背中をすって、ずッと出たものがある。
 黒い影で。
 見物が他にもいたかと思う、とそうではない。そのが、よろよろと舞台へ出て、御新姐と背中合わせにぴったり坐ったところで、こちらを向いたでございましょう、顔を見ると自分です。」
「ええ!」
「それが客人御自分なのでありました。
 で、私へお話に、
(ほんとうなら、そこで死ななければならんのでした、)
 と言ってたんそくして、まっさおになりましたっけ。
 どうするか、見ていたかったそうです。勿論、肉は躍り、血は湧いてな。
 しばらくすると、その自分が、やや身体をねじ向けて、惚々と御新姐の後姿を見入ったそうで、指の尖さきで、薄色の寝衣の上へ、こう山形に引いて、下へ一ツ、△を書いたでございますな、三角を。
 見ている胸はヒヤヒヤとして冷汗がびっしょりになる。
 御新姐はただうなだれているばかり。
 今度は四角、☐、を書きました
 その男、すなわち客人御自分が。
 御新姐の膝にかけた指のさきが、わなわなと震えました……とな。
 三度目に、〇、円いものを書いて、線の端がまとまる時、さっと地を払って空へえぐるような風が吹くと、谷底の灯の影がすっきり冴えて、鮮やかに薄紅梅。浜か、海の色か、と見る耳もとへ、ちゃらちゃらと鳴ったのは、投げ銭と木の葉の摺すれ合う音で、くるくると廻った。 

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原作は夢の中の舞台の中で二人が感応する設定ですが、映画では砂浜というか海の底(彼岸)のような超現実的な場所での描写になっています。これは『昼春後刻』の方で「君とまたみるめおひせば 四方の海の水のをもかつき見てまし」という和泉式部の歌が『昼春』の小野小町の歌と対になって出てきますので、その設定で亡き人と海の水ので会っている描写という解釈ができます。

 


 『昼春後刻(1906年)』

・目が覚めなけりゃ夢も夢じゃあるまい、って何かハーレムラノベエロゲーの主人公か、あるいはビューティフルドリーマーか、現実逃避のストーカーみたいな事を語っちゃってますね!鏡花先生(以下二十四章から)。

 「夢と言えば、これ、自分も何んだか夢を見ているようだ。やがて目が覚さめて、ああ、うたたねだったと思えば夢だが、このまま、覚めなければ夢ではなかろう。何時か聞いた事がある、狂人と真人間は、ただ時間の長短だけのもので、風が立つと時々波が荒れるように、誰でもちょいちょいは狂気いだけれど、直ぐ、凪になって、のたりのたりかなで済む。もしそれが静まらないと、浮世の波に乗っかってる我々、ふらふらと脳が揺れる、木静まらんと欲すれども風やまずと来た日にゃ、船に酔えう、その浮世の波に浮んだ船に酔うのが、たちどころに狂人なんだと。
 危険々々(けんのんけんのん)。
 ト来た日にゃ夢もまたおんなじだろう。目が覚めるから、夢だけれど、いつまでも覚めなけりゃ、夢じゃあるまい
 夢になら恋人に逢えると極れば、こりゃいっそ夢にしてしまって、世間で、たれそれは? と尋ねた時、はい、とか何んとか言って、蝶々二つで、ひらひらなんぞは悟ったものだ。

夢になら恋人に逢えるってロマンチックな話ですね~。これは今年一番の大ヒット映画と同じ話に違いない!(違うの?←見てないので適当書きました)。

 

スティーヴン・キングの「シャイニング」みたいにノートを見て青ざめるシーンがあります。もちろん書いてあるのは...。

あと映画の最後のセリフもここからですね(以下三十三章から)。

「こっちへ下さいよ、厭ですよ。」
 と端へかけた手を手帳に控えて、麦畠へ真正面。話をわきへずらそうと、青天白日に身構えつつ、
「歌がお出来なさいましたか。」
「ほほほほ、」
 とただ笑う。
「絵をお描かきになるんですか。」
「ほほほほ。」
「結構ですな、お楽しみですね、ちと拝見いたしたいもんです。」
 手を放したが、くッついた肩も退けないで、
「お見せ申しましょうかね。」
 あどけないさまで笑いながら、もちなおしてぱらぱらと男の帯のあたりへ開く。手帳のページは、この人の手にあたかも蝶のつばさを重ねたようであったが、鉛筆で描いたのは……
 一目見て散策子は蒼くなった。
 大小濃薄乱雑に、半ばかきさしたのもあり、歪んだのもあり、震えたのもあり、やめたのもあるが、〇まると☐しかく△さんかくばかり
「ね、上手でしょう。ここいらの人たちは、あなた、玉脇では、絵を描かくと申しますとさ。この土手へ出ちゃ、何時までもこうしていますのに、唯いては、谷戸口の番人のようでおかしゅうござんすから、いつかッからはじめたんですわ。
 大層評判がよろしゅうございますから……何ですよ、この頃に絵具を持出して、草の上で風流の店びらきをしようと思います、大した写生じゃありませんか。
 この円いのが海、この三角が山、この四角いのがたんぼだと思えばそれでもようござんす。それから〇まるい顔にして、☐しかくい胴にして△さんかくに坐っている、今戸焼のあねさんだと思えばそれでもようございます、袴をはいた殿様だと思えばそれでも可いでしょう。
 それから……水中に物あり、筆者に問えば知らずと答うと、高慢な顔色をしても可いんですし、名を知らない死んだ人の戒名だと思って拝んでも可いんですよ。」
 ようよう声が出て、
「戒名、」
 と口が利ける。
「何、何んというんです。」
四角院円々三角居士(しかくいんまるまるさんかくこじ)と、」

四角院円々三角居士というイカすネーミングセンスに鳳凰院凶真とか邪王心眼とかと同じ匂いを感じとってしまうのは私だけでしょうか(だいたいこの人ペンネームからして厨二っぽいですよね!)。

夢の世界を舞台にサイキックな感応を繰り広げる男女の恋愛怪異物語、さらにこれにバトルか萌え要素でも加えたら今時の深夜アニメとして通用する気もしないでもないです。意外にも110年前の文体であるということを差し引きさえすれば、これはスティーヴン・キングもびっくりな現代向けダンホラー小説ではないでしょうか。

 

※以下にも記載してますが映画には他にも鏡花原作がいろいろ使われているので探してみると面白いです。

 

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