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『生きる(1952年)』/『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK(2016年)』~ バットとハッピー・バースデーと暗渠と

今月は黒澤明の『生きる』とロン・ハワードの『ザ・ビートルズ〜EIGHT DAYS A WEEK ‐ The Touring Years』/シェアスタジアムライブが4Kリマスターで劇場に掛かってますね。大画面で若き天才達の才能の一端を堪能できる素晴らしい機会です。

この20世紀を代表する日本の映画監督とイギリスの若きミュージシャン達が半世紀以上も経った2016年の今日を持ってしてもその商品価値を維持し、ごく当然のように普通に流通されているというのはさすがと言うべきでしょうか。

しかし現在ではどちらも有名過ぎて余程のファンじゃないと今更あらためて語るのは恥ずかしく感じるかもしれません。

例えば映画好きに映画監督で誰が好きかと問われて「黒澤明」と答えたとすると「ふ~ん」といった反応しか返ってこないでしょうし、音楽好きに好きなミュージシャンは誰かと問われて「ビートルズ」と答えればやはり「ふ~ん」といった冷たい反応しか返ってこないということは安易に想像がつきます。というか普通に一番有名な大御所のアーティストの名前を挙げてつまんない奴と思われるのも恥ずかしいので、まずこの固有名詞はその選択肢から一番最初に除外される対象なんじゃないでしょうか。

でも、皆さん、本当はそんなことを気がねする必要は全く無いのです。

黒澤明」や「ビートルズ」のような今となっては有名な大御所のアーティスト達を褒め称えることは何ら恥ずかしい事じゃありません!。

彼らだって無名で苦労した若かりし頃があったのです。

皆さん、お願いです。どうか、拍手をしてやってください。
皆さんの温かい心で励ましてやってください。
世の中には彼らみたいな若くて素晴らしいアーティストがたくさんいます。
そういう人たちのために、どうか皆さんで拍手を送ってください。

パチ、パチ、パチ、パチ・・・・・。

(・・・すみません。記憶が混濁しました。これは『素晴らしき日曜日』の方でしたね。←ただやってみたかっただけです。ごめんなさい)

冗談はさておき、『生きる』も『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK』もどちらも若くて才能に溢れたアーティストの勢いのある頃のテクニックが存分に堪能できる作品です。

『生きる』の方は黒澤が『白痴』でチミノの『天国の門』のような扱いを受けた後の作品で、まだ巨匠という感じじゃなくて色々実験的な事をしている若々しい感じが画面から溢れています。

ビートルズの方は63年~66年のスタジオに引きこもる前までのライブツアーに焦点を当てたドキュメンタリーで、この頃は若くて元気良過ぎて何かいい事でもあったのかいと言いたくなる程パワフルなツアー年間です(観客も)。なんで監督がロン・ハワードなのかは良く分かりませんけれども、いつものロン・ハワード的職人技で手堅く普通によくまとまったドキュメンタリー映画になっています。

そしてさらにこの映画の終映後には劇場公開のみのおまけとして1965年の伝説のシェアスタジアム・ライブが30分4Kリマスター(元が16ミリなので絵的にはたいした恩恵はありませんが)で上映されます。これがロン・ハワードには悪いのですが、本編が前座に思える程本編を食ってしまう真打ち登場なおまけでして、僕のような当時を知らない者にとってはこれがビートルズのライブだったのかと強烈なインパクトを体感できる映画になっています。このおまけだけでも入場料の元がとれると思いますのでぜひ音響の良い劇場でご鑑賞される事をおススメします(あとはついでに忘れ去られているゼメキスの名作『抱きしめたい(1978年)』も復活して欲しいところ)。 


さて『生きる』の方の話ですが、この超有名なブラックコメディタッチの映画に関しては既に方々で語り尽くされていると思いますのでちょっと趣向を変えてクイズ形式にして書いてみたいと思います。

それでは早速、

第一問:志村喬が息子が子供だった頃の回想シーンに入るきっかけとなる戸締りに使うモノは何か?

 

第二問:志村喬が小田切みきが工場で作っている玩具を見て「まだできることがある」と気づいたシーンのバックに流れる音楽は何か?

 

第三問:なぜこの映画のラストシーンは橋の上から公園を見下ろしているのか、あるいはなぜ水たまりを埋め立てて公園にする必要があったのか?

 

どうでしょうか、簡単すぎます?

まぁ、答は先にタイトルに書いておきましたのですぐに分かったかと思いますけど、以下正解です。

 


第一問:志村喬が息子が子供だった頃の回想シーンに入るきっかけとなる戸締りに使うモノは何か?

⇒「バット」です。

このシーンはまず息子が二階から「お父さん、お父さん」と呼んで志村喬が二階の階段を上ろうとしたところ「おやすみ。下の戸締りたのみます」と言われがっかりして玄関に戸締りに行くシーンがきっかけです。

この玄関の戸締りに使用されるのがバットです。戸と戸の間につい立ててこじ開けられないよう固定するのにバットを使用しているという今だとちょっと分かりづらい戸締りに使用するモノですが、当時はこれで普通だったのでしょう。

この戸締りのバットの単独カットに〝カキーン”というボールを打つヒットの音が重なった後、野球の回想シーンが始まります。つまり戸締り⇒バット⇒ヒットの音⇒息子の野球の回想、とごく自然で分かりやすい絵と音の連鎖が回想シーンの導入部分となっています。

 

第二問:志村喬が小田切みきが工場で作っている玩具を見て「まだできることがある」と気づいたシーンのバックに流れる音楽は何か?

⇒「ハッピーバースデー」です。

田切とよ役の小田切みき(ややこしいな)がストーカーと化した志村喬にウサギのおもちゃを走らせながら「あなたも何か作ってみたら」とか言っているシーンの後ろの方でなんかごちゃごちゃと学生達が集まってケーキを運んだりして誕生パーティの主役を待っています。

志村喬は「わしにもまだ何かできる」と神の啓示を受けたがごとくつぶやきながら階段をかけ下りるのですが、その際に女学生達が「ハッピー・バースデー」を歌いパチパチと拍手しながら階段を上る誕生パーティーの主役を迎えるのです。
ここで歌われる「ハッピー・バースデー」が今までこの20年間ミイラのように死んでいた志村喬が復活(ミイラ再生かっ!)して再び「生きる」ことになる主人公を間接的に祝福するシーンであり、この映画の前半部分のクライマックスになります。

とても分かりやすい演出ですね。というか観客に分かりやすくするためにどれだけ細かい演出をしているのだろうという感じです。

あと余談ですがこのシーンは岩井俊二さんが『花とアリス殺人事件(2015年)』でそのまま引用しています。しかしこの引用は、トレース?オマージュ?いや~どーだろうか、なんつって(公園でブランコ乗るシーンあるしやっぱオマージュでしょ!、つって)。

 

第三問:なぜこの映画のラストシーンは橋の上から公園を見下ろしているのか、あるいはなぜ水たまりを埋め立てて公園にする必要があったのか?

暗渠だからです。

暗渠(あんきょ)とは、地中に埋設された河川や水路のことです。僕はこの言葉を最近『ブラタモリ』を見るまで知らなかったのですが、この言葉の意味を知ってやっとこの映画のバックボーンに設定されていた一連のシーンの意味が分かりました。

つまりこの映画の冒頭で下水が溢れて水たまりができて不衛生だから何とかしてほしいと言って苦情を市役所に言いに来たのにお役所仕事でたらい回しにされる主婦たちは、暗渠埋立てられた川沿いに住んでいた人たちということになります。

埋立てられたはずの河川が十分に埋立てられてなく、下水が水たまり化して虫が湧いたりして不衛生だという原因も、映画の中で語られている通り、そこが元々暗渠だからです。

暗渠埋立の不備の問題だからという事で市民課志村喬土木課の方へ暗渠修理の埋立陳情案件としてたらい回しにしていたという事なんでしょうね。

そして「ハッピー・バースデー」を経てでめでたくミイラ再生した志村喬が「暗渠修理及埋立陳情書」のたらい回しに判子を押す事なくお役所仕事を脱却して自分の子供のような公園作りに奔走することで彼は真に「生きる」事になるのです。

さらにこの映画のラストシーンでは橋の上から見下ろす公園で遊ぶ子供たちが映されます。なぜ橋の上かというとそれは埋設されてた河川の暗渠だからとしかいいようがありません。河川のには当然があり、映画の中でそのような美術設定ののセットが設計されるのは必然ですし、その橋の上から美しい夕焼けを見上げたり子供たちが遊ぶ公園を見下ろしたりするのもまた必然なのです。

しかし細かいですね。この設定。

さすが黒澤明(と橋本忍と小國英雄)です。素晴らしい!。

さぁ、皆さん、世の中の若くて素晴らしいアーティスト達に拍手を送りましょう。

パチ、パチ、パチ、パチ...。


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