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フリッツ・ラングとセルゲイ・エイゼンシュテイン 〜 『メトロポリス(1927年)』のセットより

遅ればせながらつい最近ツイッターを始めたのですが、なるほどこれは面白いですね。毎日自動画像収集装置botとしてけな気に働いてくれて、非常に役立ってくれています(←早くも使い方間違ってるかも)。

特に映画関連ではクラシックな名作の撮影現場の監督の写真なんかを見つけると面白くてついついリツイートしてしまいます。

そんな数ある撮影現場の写真の中で非常に興味深い写真が一枚ありましたのでご紹介します。 1926年5月か6月頃に撮られたと思われるのフリッツ・ラングの『メトロポリス』のセットでの記念写真にラングと一緒にエイゼンシュテインが写っているこの写真です。 

<向かって一番右がエイゼンシュティン、三番目がラング>

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映画史上おそらくその最上位にランクされるであろうこの二人の天才監督がそのキャリア初期の若かりし頃に接点があったという珍しい証拠写真であります。 果たしてこの時この二人がどんな会話を交わしたのか、非常に妄想を掻き立てられる興味深い写真です。

ということでちょっと調べてみたところ、この写真はポチョムキンが公開されてすぐの1926年のエイゼンシュテインが28歳の時、ドイツ映画視察のため初めて海外へ渡航(相棒のキャメラマン、エドゥアルド・ティッセも同行)した際のものだそうです(ポチョムキンにマイゼルの音楽をつけたり、左翼系の作家に会ったり、ムルナウに会ったりしたのだとか)。
この写真の撮影時、ラングは子供用のブランコにカメラを載せて爆発の最中に二人の俳優にめがけてカメラを振り子のように動かして爆発の衝撃を受けた時の感じを表現しようとしていたそうです。固定カメラか移動カメラかに関して二人は話し合っていたそうですが撮影のスケジュールのため中断、ラングはもう一度エイゼンシュテインに会う計画を立てたのですが既に彼はベルリンを去った後で実現しなかったそうです(*1)。後にエイゼンシュタインはラングのことをレフ・クレショフに似ていると述懐しており、クレショフも予算があればメトロポリスのような映画を作ったに違いないとも言っています。
しかしよく考えると『戦艦ポチョムキン』と『メトロポリス』は同時代というか同時期に製作された作品なんですね。メトロポリスwikiには「前年の1925年に製作された『戦艦ポチョムキン』と並んで、当時の資本主義と共産主義の対立を描いた作品でもある」とありますが撮影自体はメトロポリスの方が先に始まっていますので直接的な影響があるのかはちょっと疑問です。
それではまずこの時代の背景となる二人の略歴に関して写真を交えて探ってみましょう。

 

セルゲイ・エイゼンシュテインに関して

(※向かって右の人です。念のため)

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”リアル”イレイザー・ヘッド(?)ことセルゲイ・エイゼンシュテインは1898年ロシア領ラトビア生まれのドイツ系ユダヤ人の血を引く建築家の息子で自身も国立建築学校に通っていたそうです。

1920年代はモスクワで演劇の美術に関わり、さらに1924年にはラングのドクトル・マブゼ』のロシア語版の編集に携わっています。つまりこの時点でエイゼンシュテインはラングから多大な影響を受けていたということが容易に想像できます(ちなみにエイゼンシュタインは歌舞伎や俳句や漢字や浮世絵といった日本文化からの影響も大きいことで有名です)。

その後いくつかの短編を経て『ストライキ1924年)』で長編デビュー。これは若き天才の息吹きが爆発している素晴らしい作品です
そしてこのデビュー作でエイゼンシュタインの枕詞ともいえる有名なモンタージュ理論が実践されています。モンタージュ理論とは今風に言うとPPAPみたいなものでパイナッポーペンとアッポーペンを足したらペンパイナッポーアッポーペンみたいなよく分からない全く別のモノができてしまうみたいなことです。つまりを足すとえるという漢字になったり、を集めると宇宙は大変だ-になるようなものです(AとBを衝突させると観客はCを想像するという理論です)。この映画では屠殺される牛と弾圧される労働者が足されてなんとも大変なシーンになっています。
そして1925年にそのモンタージュ理論をさらに推し進めた『戦艦ポチョムキン』でピコ太郎みたいに世界的に大ブレイクし、すっかり有名人になったエイゼンシュテインは1930年にはハリウッドから招聘され、メキシコで映画を作ったり(オーソン・ウェルズの『It's All True』みたいに未完、後の『メキシコ万歳(1979年)』)と一時期は流動的に世界を駆け巡っていたようです。
 
<ハリウッド来訪時のチャップリンやスタンバーグ、デートリヒとの記念写真>

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<ウォルト・ディズニーとのツーショット(ミッキーとも握手)> 

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フリッツ・ラングに関して

(※フォークト・カンプフ検査ではありません。念のため)

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著作権の無い独眼竜の映画監督ことフリッツ・ラングは1890年にこれまた建築家の息子としてウィーンにユダヤ人として生まれました。ラングも建築関係の学校に入るも興味は美術関連に移り、若い頃は世界一周して絵を描いて暮らしていたとか。その際日本にも来たことがあるそうです(ちなみにラングは1919年に『ハラキリ』という映画を撮ってたりします)。

1919年には5日で撮ったという『半カースト』で監督デビュー。1921年の『死滅の谷』のヒットで頭角を現し、翌22年の『ドクトル・マブゼ』で大当たりを取り、24年の『ニーベルンゲン二部作』で世界的名声を獲得しました。
そのノリに乗っていた時期のラングが25年に製作開始したある意味『天国の門』的ともいえる超大作が『メトロポリス』になります(膨大な製作費をかけたにも関わらずヒットには至らずウーファの屋台骨を揺るがし、大幅に再編集された)。
どの程度超大作だったのかというと「4200メートルの映画に対して1300000メートルのポジフィルムが感光され、36000人のエキストラが使われた。そのうち子供750人、靴2000足、髭75個、オリジナルのプランに従って作られた自動車500台、1925年5月22日から1926年10月30日までの撮影期間のうち、日中の撮影310日、夜間の撮影60日、これにミニチュア模型による撮影の日数が加算される製作費総額500万マルク」ということです(*2)。 

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言うまでもなく『スター・ウォーズ』や『ブレード・ランナー』や『メモリーズ』の「大砲の町」等、直接的に後世の映画に多大な影響を与えています。

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フリッツラングセルゲイエイゼンシュテイン

この後二人がどうなったかというとエイゼンシュテインは結局海外の映画製作がうまくいかずロシアに戻り国家の庇護を駆け引きに不自由な大作を撮ることになります。

ラングのほうは台頭するナチから逃げるようにハリウッドに亡命し、これまた不自由な職業商業映画作家の道に進みます。

しかしながらそれぞれ国家やプロデューサーという独裁者と折り合いをつけながら制約のある中で天才の名にふさわしい数々の傑作を生み出しています。

そしてエイゼンシュテインは1946年に『イワン雷帝 第二部』を完成させるもスターリンにより上映禁止処分にされ、さらに改変を要求された続く第三部を放棄したまま1948年50歳の若さで亡くなります。
ラングは1956年の『条理ある疑いの彼方に』を最後にハリウッドを離れ、ドイツに戻って1958年の『大いなる神秘 二部作』を撮り、1960年の『怪人マブゼ博士(マブゼ博士の千の眼)』が結局遺作となりました。ラングはこの映画に関して「私がこうした映画を作ったのは、それらが重要だと思ったからじゃない。誰かに興業的な大成功を収めさせてやれば、『M』のときみたいに何の制約も無しに映画を撮れる機会がまためぐっってくるかもしれないと期待していたからだ。私の思い違いだったよ」と語っています(*3)。
その後ラングは最終的にはアメリカに戻って1976年85歳で亡くなりました。
 
ということでちょっと接点のなさそうなラングとエイゼンシュタインの二人を一枚の写真を元にモンタージュしてみました。この写真はまさに二人の人生の中で一期一会の瞬間だったということになります。
 
【年表】
       

*1:エイゼンシュテイン(上)1898-1932」 マリー・シートン(著) 1966年発行 美術出版社

*2:メトロポリス クリティカルエディション』リーフレットより 紀伊国屋書店

*3:「映画監督に著作権はない」フリッツ ラング (著), ピーター ボグダノヴィッチ (著) 1995年発行 筑摩書房


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