「黙示録三部作」の三作目と言われている『マウス・オブ・マッドネス(1994) 』について書きます。ホークスの西部劇三部作同様、パラダイムと同じ話を換骨奪胎した物語とも言えます。
閉鎖された教会の地下室は閉鎖されたホラー作家の描く街に、
闇のプリンス様である悪魔は同じく反=神(アンチゴッド)であるホラー作家に、
謎の緑の液体は読むと人を狂わす本に換わりますが、だいたい同じような話です。
基本的にクトゥルフ神話やH・P・ラヴクラフトに想を得ているという点はパラダイムと同じです。ただこの映画がパラダイムと根本的に異なる点は、(ジョンカペが意識的かどうかは不明ですが)1990年代の映画としては非常に珍しくフィルム・ノワール的な語り口を持って描かれている点です。
(注:以下ネタばれです。ポップコーンでも食べながら先に映画をご鑑賞ください)
フィルム・ノワールとホラー
ここでフィルム・ノワールの主な特徴をおさらいしておきましょう。
- ドイツ表現主義にも通じる、影やコントラストを多用した色調やセットで撮影され、行き場のない閉塞感が作品全体を覆っている。
- 夜間のロケーション撮影が多い。
- 登場人物の主な種別として、私立探偵、警官、判事、富裕層の市民、弁護士、ギャング、無法者などがあげられる。彼らはシニカルな人生観や、閉塞感、悲観的な世界観に支配されている。
- ストーリーの展開としては、完全に直線的な時系列で物語が語られることはまれであり、モノローグや回想などを使用する。
- 低予算のB級映画として製作された作品が多く、予算や撮影日数、上映時間の制約は厳しい。
1.に関してはインタビュー本*1にてジョンカペは自分がドイツ表現主義の影響を受けていることを語っています。
私はロシア式モンタージュよりドイツ表現主義のほうが好きだ。映画の撮り方はこのふたつしかない。それ以外はどうでもいいものだ。
ドイツ表現主義は、孤独感、メランコリー、不吉な雰囲気などを感じさせることができるが、それだけでははなくサスペンスを作り出すために用いることもできる。
ダリオ・アルジェントならともかくジョンカぺがそんなに影響を受けていたとはちょっと意外ですが、ホラーとフィルム・ノワールはドイツ表現主義から生まれた双子の子供のようなものだと考えればそれほど違和感はありません。
例えばこの映画の不吉な雰囲気の画面構成で以下のようなシーンがあります。バスに乗っている主人公の隣に座った反=神であるホラー作家が「僕の好きな色はブルーだ」と言うと世界が一変して青色になるというシーンです。作家が神であることが証明され主人公の絶望的な狂気をワンカットで表した表現主義的な演出です。ちなみにここではカラコレで青色にしているのではなく着ている服から髪の毛の色からバスまですべて青色のものを別に用意して撮影したそうです。
さらに余談になりますがこの映画のBlu-Rayの特典にはジョンカペと撮影監督のゲイリー・B・キッビのオーディオコメンタリーがついています。その内容がほとんどジョンカペによるキッビへのインタビューで「このシーンの照明どんなだったっけ?」とかレンズ何使ったかとかという技術的な話を全編に渡って行っています(あんた一緒に撮ってたんじゃないんかい!、とツッコミたくなりますが)。そしてこのコメンタリーの最後にジョンカペは「やっぱ撮影って大変だな、俺は監督で良かったぜ」と言っています(笑)。
2.の夜間撮影のロケーション撮影もこの映画の見所の一つです。特にフィルム・ノワールには欠かせないお約束である“雨に濡れた路面”も出てきます(先のコメンタリーでは「何で濡らすんだっけ?」みたいな質問をしています。おいおい)
3.に関してはこの映画の主人公は失踪したベストセラー作家を捜す保険調査員なのでほぼ私立探偵みたいなものですね。ちなみにサム・二ールが何度か劇中で耳を触るしぐさはホークスの『三つ数えろ(1946)』のハンフリー・ボガードのオマージュだそうです。彼はホラー作家が神になるなんて信じないシニカルな男ですが“恐怖のまわり道”の中でそれが真実であることに気づき、だんだん狂ってしまうという極めてノワール的な破滅型の主人公になっています。
4.に関してこの映画のストーリー展開はジョンカペのフィルモグラフィーでは初めての回想形式です(理由は単に「原作がそうなっているから」だそうですけどね)。しかもストーリー的にはメタフィクション的な仕掛けが用意されているの点が他の黙示録三部作との違いです。
5.は言わずもがなですね。この映画の上映時間は95分で非常にタイトです。
どうでしょうか、ファム・ファタールは出てきませんが、ジョンカペが意外なルーツからフィルム・ノワール的なホラー映画を作っていたということが分かります。
フリッツ・ラング的な悪夢のリズム
この映画はタイトルバックとして製本の工程を非常に無機的で無駄のない小気味よいカットを積み重ねる所から始まります。製本されている本のタイトルはもちろん『マウス・オブ・マッドネス(In the Mouth of Madness)』です。
フリッツ・ラングの『クラッシュ・バイ・ナイト(1952)』のオープニングの缶詰工場や『仕組まれた罠("Human Desire":1954)』のオープニングの線路ような無機的で無駄のない描写が持つシンプルな美しさを感じさせるタイトルバックです。
ここで唐突にフリッツ・ラングの名前を出してしまったのは初期のドイツ表現主義の方ではなく、アメリカ時代に撮ったフィルム・ノワールの傑作群、中でも『飾窓の女(1944)』が持っている“悪夢のリズム”に本作が似ていると僕が感じているからです(あくまでも作品の持つストーリーテリングの演出のリズムの話です。ストーリー自体はどちらも全く異なります)。
フィルム・ノワールの主人公達は『飾窓の女』のエドワード・G・ロビンソンにしても『恐怖のまわり道(1945)』のトム・二ールにしても悪夢的な状況が積み重なって最終的な悲劇が訪れることになります。
この現実とも非現実とも取れる不条理な状況はラングの場合、現実的にはありえないような出来事がまさに悪夢のようなリズムで次々と発生していくことで表現されます。エドワード・G・ロビンソンがジョーン・ベネットのような魔性の女に取り憑かれるが如く、サム・ニールも同様にホラー作家(スティーブン・キングがモデルと言われています)が作った本の世界の中に取り憑かれてしまいます。そこは主人公が抜けだすことのできない閉鎖された空間で、悪夢のような出来事を次々と経験します。
最終的にエドワード・G・ロビンソンは悪夢のように進んでいた出来事が実は本当の悪夢だったというだったという夢オチのハッピーエンドとなりますが、本作のサム・二ールは自分の現実がホラー作家の本に書かれた登場人物にすぎないということが判明して悪夢の中の崩壊した世界に取り残されるバッドエンドとなります。
実は映画の冒頭からホラー作家が書いた本、及びそれを映画化した『マウス・オブ・マッドネス(In the Mouth of Madness)』という映画の中の出来事だったというメタフィクショナルな展開が本作のオチなのです(最後に主人公が入る映画館で上映されている映画は『マウス・オブ・マッドネス』で、そこに貼られているポスターに書いてあるクレジットにはちゃんと監督ジョン・カーペンター、撮影ゲイリー・B・キッビ、主演ジョン・トレントと記されています)。
かなり強烈な皮肉の効いたオチなのでこれにはサム・ニール同様笑い狂うしか他ありません。
ホラーとフィルム・ノワール、ドイツ表現主義から派生した二つのジャンルがジョン・カーペンターによって20世紀末に彼の集大成として結合したというのが本作の面白さではないでしょうか。
ということで「黙示録三部作」の話はこれにて完結です。
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*1:恐怖の詩学 ジョン・カーペンター(2004年 フィルムアート社