遅ればせながらつい最近ツイッターを始めたのですが、なるほどこれは面白いですね。毎日自動画像収集装置botとしてけな気に働いてくれて、非常に役立ってくれています(←早くも使い方間違ってるかも)。
特に映画関連ではクラシックな名作の撮影現場の監督の写真なんかを見つけると面白くてついついリツイートしてしまいます。
そんな数ある撮影現場の写真の中で非常に興味深い写真が一枚ありましたのでご紹介します。 1926年5月か6月頃に撮られたと思われるのフリッツ・ラングの『メトロポリス』のセットでの記念写真にラングと一緒にエイゼンシュテインが写っているこの写真です。
<向かって一番右がエイゼンシュティン、三番目がラング>
映画史上おそらくその最上位にランクされるであろうこの二人の天才監督がそのキャリア初期の若かりし頃に接点があったという珍しい証拠写真であります。 果たしてこの時この二人がどんな会話を交わしたのか、非常に妄想を掻き立てられる興味深い写真です。
セルゲイ・エイゼンシュテインに関して
(※向かって右の人です。念のため)
”リアル”イレイザー・ヘッド(?)ことセルゲイ・エイゼンシュテインは1898年ロシア領ラトビア生まれのドイツ系ユダヤ人の血を引く建築家の息子で自身も国立建築学校に通っていたそうです。
1920年代はモスクワで演劇の美術に関わり、さらに1924年にはラングの『ドクトル・マブゼ』のロシア語版の編集に携わっています。つまりこの時点でエイゼンシュテインはラングから多大な影響を受けていたということが容易に想像できます(ちなみにエイゼンシュタインは歌舞伎や俳句や漢字や浮世絵といった日本文化からの影響も大きいことで有名です)。
フリッツ・ラングに関して
(※フォークト・カンプフ検査ではありません。念のため)
著作権の無い独眼竜の映画監督ことフリッツ・ラングは1890年にこれまた建築家の息子としてウィーンにユダヤ人として生まれました。ラングも建築関係の学校に入るも興味は美術関連に移り、若い頃は世界一周して絵を描いて暮らしていたとか。その際日本にも来たことがあるそうです(ちなみにラングは1919年に『ハラキリ』という映画を撮ってたりします)。
言うまでもなく『スター・ウォーズ』や『ブレード・ランナー』や『メモリーズ』の「大砲の町」等、直接的に後世の映画に多大な影響を与えています。
フリッツラングセルゲイエイゼンシュテイン
この後二人がどうなったかというとエイゼンシュテインは結局海外の映画製作がうまくいかずロシアに戻り国家の庇護を駆け引きに不自由な大作を撮ることになります。
ラングのほうは台頭するナチから逃げるようにハリウッドに亡命し、これまた不自由な職業商業映画作家の道に進みます。
しかしながらそれぞれ国家やプロデューサーという独裁者と折り合いをつけながら制約のある中で天才の名にふさわしい数々の傑作を生み出しています。
- 1922年:5月『ドクトル・マブゼ』べルリン・プレミア公開
- 1924年:3月『ドクトル・マブゼ』ロシア語版にエイゼンシュテイン参加
- 同年6月『ストライキ』着手12月完成
- 同年10月ラング、アメリカ旅行にて『メトロポリス』の想を得る
- 1925年:4月『ストライキ』公開
- 同年5月22日『メトロポリス』撮影開始
- 同年 8月『戦艦ポチョムキン』一部撮影開始12月試写
- 1926年:1月『戦艦ポチョムキン』公開
- 同年3月(4月の文献もあり)ドイツ映画調査のためベルリンに派遣
- ※この時期『メトロポリス』のセットで記念撮影
- 同年5-6月エイゼンシュテイン帰国して『前線』の準備に入る
- 同年11月『メトロポリス』完成して検閲を通過
- 1927年:1月『メトロポリス』プレミア版(210分)公開(※アメリカ公開版は110分、現在発売されているBDの完全復元版は150分)