小津安二郎のサイレント時代
1927年デビューから1936年までに小津は35本のサイレント映画(音響版を含む)を撮っていますが、その内現存するものが残念な事に約半分の17本。同時期の山中貞雄に比べればマシな方だという事もできますが、これはやはり残念としか言いようがない現実です。
例えば「監督として情熱を持って力一杯仕事した」と小津自身が語っている(*1)1931年の『美人哀愁』ですらも現存しておらず、その情熱の成果を確認することができません。これでは小津映画の全貌を語る事などは偉い評論家や大学の学者先生だろうが出来はしないといっても過言ではないでしょう。
...という事で現在小津の全貌をまともに語る事は誰にも出来はしないという前提に立った上で、勝手な事を書いてしまえ!というのが今回のお話です。
しかしなぜ小津なのか。数ある日本映画の巨匠達の中で、なぜ小津だけが今も生き残って世界的に評価されるのか?(溝口は別格としても)小津にあって伊藤大輔や伊丹万作や清水宏や内田吐夢といった同時期の他の巨匠達に無いモノは何か?。
そのナゾを探るべくサイレント時代の小津に顕著な特性を見ることによって現代との接点を見てみたいと思うのですが、結論から申しますとそのキーワードはアメリカ映画的なモダニズムがもたらすオシャレでファッショナブルな”萌え”ではないでしょうか?
戦後の神格化された格調高い純和風な作品群からしてみると、小津と”萌え”という言葉は結びつきづらいかもしれませんが、サイレント時代の小津は1930年代当時のアメリカ映画からの影響を包み隠さず作品に取り入れ、ファッショナブルで萌え萌えなヒロインを配した、オシャレ上級者ともいえる洗練された蒲田ヌーヴェルバーグともいえる作品群を量産していたのです。
そしてそのヒロイン達は決まって”見返り美人”的なポーズをとります(このポーズは当然女性に限らず子供達や男性でも多いです)。サイレント映画なので字幕/スポークンタイトルが入るきっかけが必要になるのですが、このきっかけを小津は独特の背後から振り返り、唇を動かし始めるカットから始まります。
この見返り美人的なカットの独特なタイミングの多さは、例えサイレント映画の常套手段とはいえども非常に多いのです(この作家の生理はサイレント以降も続いていくので、これは小津映画の持つ本質的な基本動作の一つと思われます)。
この動作は、向き合う事なく平行に並ぶ人と人と人とが対話する小津的シチュエーションにおいて、重要なサイレント映画的リズムを生んでいます。実際ラッパーが韻を踏むように小津のサイレント映画の画面はミュージカルとまでは言わないまでも、韻文的にリズミカルな画面が連鎖します(そのリズムは人だけではなくフェティッシュなモノ=静物も対象となります)。
そしてこれら全ての対象が小津の法則ともいえる画面の構図と編集の連鎖よって生み出され、韻文ならぬ韻画のリズムとしてサイレント時代に完成し、トーキー以降の小津映画の基本として引き継がれて続いていきます。
このように1930年代、時代がトーキーに傾いた時期になってもずっと小津がサイレントこだわっていた(岸松雄のような評論家達になぜトーキーを撮らないかのかと再三責められていた)のは「茂原式トーキー」を待つとともに、サイレント映画という形式のリズムのテクニックを自分なりに完成させたかったからではないでしょうか。
では具体的に小津のサイレント作品を現存するもの全て年代順に見ていきましょう。尚、この時代の作品の全てはyoutubeでも簡単に見れるので、ぜひ若き小津映画の奏でるサイレントなリズムを体感/堪能 いただければと思います。
小津安二郎のサイレント時代のフィルモグラフィー(「※」は現存しない作品)
1927年 ※懺悔の刃 (69分)
1928年 ※若人の夢 (55分) 、 ※女房紛失 (54分) 、 ※カボチヤ(42分) 、 ※引越し夫婦 (40分) 、 ※肉体美 (54分)
1929年 ※宝の山 (66分)
1929年 『学生ロマンス 若き日』(103分)
ロイド眼鏡と逆R印セーターの大学生がスキー場でセーラー服(なんで!?)のヒロインを巡って仁義なきナンパ合戦を繰り広げるラブコメ映画です。90年前のサイレント作品とはいえ、洗練された視覚ギャグで上品に纏める手腕は流石おしゃれ上級者といえる若き26歳頃の若き小津先生であります。
冒頭の長めの風景パンとかスキーでぶつかる際の主観ショットとか結構自由に撮ってる感じの初期小津作品ですが、中でも面白いのは画面の奥の部屋からヒロインがみかんを投げて手前のコタツに座ってる主人公達がキャッチするアクションシーン。ここだけ3D的とも言える拡張映画空間が突如として出現します。
計三回も繰り返される下宿(セット)の窓側から右を見上げれば煙突から煙、左を向けば換気扇と風見鶏の実景が、というクレショフ効果的というか「おい、ちょいと見てごらん、お嫁さんが行くよ」的な、映画でしかありえない空間連鎖の視線のモンタージュはこの頃から健在です。
尚、この頃の小津サイレント映画には必ずといっていいほどモダーンな洋画ポスターがでてきます。本作で登場するのは元の下宿から引っ越し先の下宿までずっと映りっぱなしの『第七天国』(1927年)。ギャグでも「俺は第七天国に行くんだ」と言及して質屋に行っています。結構当時直近の流行り作品を時事ネタのギャグにしてる感じです。
1929年 『和製喧嘩友達』 (77分)
この頃の小津先生は普通にアメリカ映画っぽくオーバーラップを使ったり、グリフィスっぽい汽車と車の並走を撮っていたりしますが、二人並んで座らせる所なんかはやはりフェティシュな構図の嗜好性が見えます。そして部屋の背景のシボレーや映画のポスター、車の切り抜きなんかがさすがオシャレ上級者さんです。
使用されている映画のポスターは1924年の『絶海の猛漢/The Uninvited Guest』。本作自体も1927年の『喧嘩友達/McFadden's Flats』という1927年のアメリカ映画の喜劇を下敷きに作られているらしいです。
1929年 『大学は出たけれど』 (70分)
本来は70分の作品ですが10数分しか現存していません。本作の見所はズバリ就職出来なくて遊んでる主人公のためにメイドカフェでバイトする幼な妻の田中絹代でしょう(20歳頃ですね。若っ!)。いつもの洋画ポスターは『ロイドのスピーディー』(1928年)で、これも結構リアルタイムに取り入れられています。
後、街の通りの中に「ミゾグチ理髪所」が出てきますが、ここは同じ年に作られた『学生ロマンス 若き日』にも出てくるので同じセットで撮影していると思われます。なぜミゾグチなのかは日活のスキー映画に松竹蒲田脚本部の名前が使われた事への仕返しというか悪戯の一つという事らしいです(なんでも当時日活京都撮影所の脚本部長が溝口だったらしい)。その他命名の元ネタの詳細に関しては田中真澄さんの遺稿集『小津ありき 知られざる小津安二郎』を参照方。
1929年 ※会社員生活 (57分)
1929年 『突貫小僧』 (38分)
38分の中編ですが、現存は18分。原作というか元ネタがO・ヘンリーの「赤い酋長の身代金」 ということはホークスの『人生模様』(1952年)と同じですね。子供を誘拐するために生まれてはみたけれどと同様の得意の変顔と変なポースする斎藤達夫が笑えます。
1930年 ※結婚学入門 (71分)
1930年 『朗かに歩め』 (98分)
冒頭のトラックバックによる移動撮影の素晴らしさを含め、アメリカ映画的なモダーンさが全編にわたって持続する事に驚かされます。部屋の壁に絵や英字を書いたり、ポスターや新聞の記事で埋めてしまう映画でしか存在しない空間のセンスの良さは流石オシャレ上級者の小津先生です。
尚、この頃の小津映画の男女の出会いはお約束で大体同じパターン(しかも主観のPOVショット)なのですが、
- 『若き日』=スキーでぶつかってナンパ
- 『和製喧嘩友達』=車でぶつかってナンパ
- 『朗かに歩め』=車でぶつかった妹をひき逃げしようとしたが、美人の姉が駆け寄って来たので引き返してナンパ
…と本作が一番ヒドイ!
いつもの洋画ポスターはヒロインが勤める貿易会社に貼ってある『踊る娘達/our dancing daughters』(1928年)。尚、本作に”踊る娘達”は出てきませんが、ほんのちょっとだけミュージカルっぽく“踊る男達”が出てきます。次の『落第はしたけれど』でもラインダンスっぽい事してるし、好きなんでしょうねぇ、ミュージカル。
1930年 『落第はしたけれど』 (64分)
早稲田界隈を舞台にした学生物です。前半は『ザ・カンニング IQ=0』の如くあの手この手のギャグの応酬、後半はペーソスも交えしんみりさせ多彩な旨さを魅せる初期小津作品。そして人はおろかモノ=静物でさえも物理的に並列化して並べないと気が済まないフェティッシュな小津の法則は本作でも顕著です。
いつもの洋画ポスターは前年の『美貌の罪人/charming sinners』(1929)。
ヒロインの萌え萌え田中絹代がピザ屋ならぬパン屋さんで、学生が帽子と腕/足を使った絵文字でパンを宅配注文するシーンが笑えます。ちなみにとても学生には見えない主役の斎藤達雄が食べてた菓子パンは『風たちぬ』にも出て来た「シベリア」みたいです。あんな甘そうなのをバクバク食ってたのかと思って見るとさらに可笑しい。
1930年 『その夜の妻』 (65分)
無国籍風アパートを舞台にした米映画的なサスペンス。1930年3月掲載の短編を原作に同年7月公開だから仕事の速さはスピ以上ですね。そしてこの映画はなんと言っても主役の八雲恵美子が良いです。和服に二丁拳銃!ソフト帽!
いつもの洋画ポスターは『Broadway Scandals』(1929)。隣にはWalter Huston の名が見えます。後、赤いティーポットも見えます(モノクロなので多分としか言いようがありませんが)。
そして何よりこの映画の特徴はブレッソン以上に手や足の部分の動きを捉えている所です。手のアクションを丁寧に短い別カットで拾う事で、映画内でメリハリのある素早い編集のリズムを奏でています、
例えば…
- 電話のダイアルから離れる手
- 拳銃を持つ手
- 聴診器を持つ手
- 看病する手
- カバンを畳む手
- 電話ボックスに掛ける手
- 警察が道に書いた地図をなぞる手
- 手を掴む手
- ハンドルを握る手
- 靴紐を結ぶ手
- 拳銃でホールドアップさせる手
- 拳銃を置く手
- 薬を飲む手
- 牛乳を配達する手
- ライターを点ける手
- 本の頁をめくる手
ともう、しつこい!ちゅー程に描写されます。で、なぜそんなに手に拘るのかというと、それはもうあの幸福なラストの伏線の為としか考えられません。
という事でこの映画をまだ未見の方は是非手の動きにも注目してご覧いただければと思います。
1930年 ※エロ神の怨霊 (27分)
1930年 ※足に触つた幸運 (74分)
1930年 ※お嬢さん (135分)
1931年 『淑女と髯』 (74分)
むさ苦しいバンカラな髭男が髭を剃ったらイケメンのモテ男になるというコメディ。たった8日で撮影したらしいです。リンカーンや古来英雄は髭を好むとしてマルクスの肖像も(当時の治安維持をからかう珍しく政治ネタのギャグも有ります)。
いつもの洋画ポスターは『悪漢の唄/The Rogue Song』 (1930)。
この映画に出てくる見返り美人な淑女達
1931年 ※美人哀愁 (158分)
1931年 『東京の合唱』 (90分)
「その夜の妻」の主演コンビ再び。今回は社長に同僚の不当解雇を抗議したらクビになった主人公とその家族の小市民物です。郊外の一戸建て和風建築が舞台とあって、この辺りから見慣れた小津映画空間が出現し始めています(室内も電車の中も全く同じアングルではありますが)。
いつもの洋画ポスターはこの作品では出て来ませんが、後の『お茶漬の味』でもお馴染みの洋食屋「カロリー軒」の店の中に、舞台劇「彼女」(『何が彼女をさうさせたか』の舞台版)のポスターが貼ってあるのが左端にちょこっと見えます。
1932年 ※春は御婦人から (74分)
1932年 『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』 (91分)
子供の怪我で撮影が中断、その間にもう一本『春は御婦人から』を撮っていますが現存していません。本来は蒲田調の喜劇だった脚本を小津は上映会以後を全て書き換え、会社内カーストを目の当たりに反発する子供達と父親との対立と和解の物語に変更しているそうです。
この作品は主役が二人兄弟の子供という事で、二人揃って正面に並ぶショットが多いです。二人揃って正面のショットが多いという事は二人揃って背面のショットへのアクション繋ぎも多いという事になります。固定画面なのに構図が反転する事によって生じる映画的な運動とリズムが心地良いです。
そしてさらに背面のショットが多いという事は背面から振り返るショットも多いという事になります。この振り返って視線の交差が始まるというのはなんとも小津的な韻画のリズムです。
後、この作品は色々食べ物に関するエピソードが多くて楽しいのですが「オナカヲコワシテヰマスカラ〜」の紙をぶら下げている子供は松竹城戸所長の秘書の子が実際にしていた実話ネタを取り込んだらしいです。
1932年 『青春の夢いまいづこ』 (91分)
同年の『また逢ふ日まで』(現存せず)が予算オーバーのため急遽低予算の過去作寄せ集めで作られたという『落第はしたけれど』の続編的作品。寄せ集めとはいえどこのクオリティなのは流石小津先生。尚、本作のラストでビルの屋上から結婚した親友を見送るシーンは後の『秋日和』において岡田茉莉子と司葉子に男女変換されてそのまんま変奏されています(トウフ屋はトウフしか作らないのです)。
後、この映画の見どころはなんと言っても戦後作品からは想像つかない程萌え萌えな田中絹代さんです。花の髪飾りしてる人って、ハワイアンかとあるアニメの初春さんぐらいでしか見た事ありませんが、この萌え萌え田中絹代はベーカリー「ブルーハワイ」に勤めているという設定なので決して不自然でもイタい人でも無いのです。
まぁ、究極の萌え萌え田中絹代は後述する翌年の『非常線の女』なのですが、前年の満州事変からの上海事変、5・15事件とナショナリズムが台頭する時代を鑑みますとこの辺最後の仇花的な感じもします。
尚、1932年というと23歳の山中貞雄が『抱寝の長脇差』でデビューした年ですので、世情に反して、いよいよ若々しい邦画ヌーヴェルヴァーグ時代突入の感がします。
1932年 ※また逢ふ日まで (78分)
1933年 『東京の女』 (47分)
47分程度の中編です。ここでようやくローアングルや正面切り替えしといった小津先生らしいテクニックが出てきてしっくりきます。特にサイレントだと見返り美人的にちょっと振り返って何か喋る所で字幕が入るという韻文というか韻画のリズムが確立していています。
今回は洋画ポスターどころか洋画そのもの『百万円貰ったら』(1932)がガッチリと引用されています。オムニバス映画のルビッチ担当部分でクレジットやドアを開けるショットを入れてるのが面白いですね。尚、本作の原作者としてクレジットされているエルンスト・シュワルツはルビッチとハンス・シュワルツの合成で実在しません。
エルンスト・シュワルツに関して1933年当時日本でどのような扱いだったのか私には不明ですが、たぶん当時のお気に入り監督なのでしょう(唯一ソフト化されている『狂乱のモンテカルロ』の公開は翌1934年)。他にルビッチ以外の小津先生のお気に入りはキング・ヴィダーで、「『南風』(1933)は4回見た」と言ってあちこちで絶賛しています。
1933年 『非常線の女』 (100分)
『暗黒街の女』(1928)をヒントに作られたという傑作サイレントノワールです。『朗らかに歩め』や『その夜の妻』から続く米映画的モダニズムの集大成的作品で、本来ならギャングの情婦で悪女役な田中絹代が全くズベ公に見えぬため、殺伐感ゼロのゆる百合要素さえもあるほのぼのとした萌え萌えノワールになっています。
ゆる百合といってもキスシーンがあるだけですけどね。今では何ともない表現なのでしょうが、当時はどうだったんでしょう。1933年というと国際連盟から脱退して軍部が台頭し右傾化する時期ですがまだ検閲も無く、誰にも気付かれず怒られなかったのでしょう。しかし若いですな小津先生(手でキスの感触を確かめるカットまでありますよ)
そしてさらにリタ・ヘイワースが着そうなドレスで登場したりする萌え萌え田中絹代さん。全く凸凹が無い田中さんにこのドレスはかなり無理があるのでは?と思いつつも小津先生のアメリカ映画趣味の犠牲となってコスプレさせられてしまう田中さんなのでありました。
この映画もフェティッシュな小津先生の法則によって様々な静物達が反復して登場し、その差異によってクライマックスの伏線回収に使用されたりします。まずは拳銃ですがこれはクドい程に4回くらい反復して出てきます(この拳銃がいつ誰に発砲されるのかどうかは見てのお楽しみ)。
次に拳銃以外の静物でティーポットと毛糸の玉と植木鉢が登場します。
ティーポットは毛糸と絡まる事により再登場します
植木鉢はティーポットに水をかけられ登場します
これらのモノ言わぬモノがサイレント映画の反復と差異の韻画のリズムによって、この映画のラストシーンには何が必要であるかが示されます。
いつもの洋画ポスターは先生お気に入りキング・ヴィダーの『チャンプ』(1931)。次作の『出来ごころ』に影響を与えています。他にもボクシング関連でジャック・デンプシーの名が見えます。先生のボクシングやモンタ・ベルへの傾倒振りは田中真澄さんの「小津安次郎周遊」のエッセイ「ボクシングのお話」に詳しいです。
小津と山中貞雄は同年10月6日に京都で初めて出会っています。『非常線の女』は山中のお気に入りの映画でもあり「芝生があってー」「小鳥が鳴いてー」のタイトルが気に入ったらしく、シナリオを書きながらも酒を飲みながらも「芝生があってー」「小鳥が鳴いてー」と一人口ずさんで楽しんでいたといいいます。
1933年 『出来ごころ』 (100分)
前作から一転というかこれが本来の小津調な浪花節で長屋紳士録(当初の傍題)的な初の喜八物。身寄りの無いリストラされた美少女を助けて惚れる寅さん的展開や、男親/子一人の『チャンプ』的展開も。唐突に出現する『東京の合唱』的な別れの花火や美しい川のイメージも忘れられません。
1934年 『母を恋はずや 』 (93分)
母と子が二人、子は異母兄弟であり、そこから生じる誤解から家族の崩壊が始まるシリアスな母物メロドラマです。喜劇的な所は全く無く、最終的にはハッピーエンドらしいのですが最初と最後の巻が現存してないため粗筋で確認するしかありません。
この映画では物言わぬシルクハットが印象的に使われています。
このシルクハットは引越しの際(引越しの度に住居が悪くなるので経済的な没落も描かれる)に父親の遺品を懐かしんで家族それぞれが被る団欒の役割が与えられているのですが、それが投げ捨てられ円を描いて止まるという単独ショットで家族の断絶という別の役割も与えられます。こういう所はサイレントならではの説話論的視覚効果で上手いです。
兄弟の名が貞雄と幸作になっていますがこの名の由来は山中貞雄と秋山耕作。同年の始めに山中や秋山が京都から訪ねてきた際、本牧のチャブ屋(バーとディスコと娼館が混ざったような所)で遊んだそうなのですが、そのチャブ屋が本作の重要な舞台となっています(そこにいつもの洋画ポスターでルイス・マイルストンの『雨』が使用されています) 。
1934年 『浮草物語』 (89分)
1959年にリメイクされた『浮草』のオリジナルです。話は全く同じですがリメイク版は119分でこちらは89分と30分もスリムで無駄無く叙事的で展開も早いです。そして隠し子を持つ主人公にこれで五分五分だという女房の女の復讐が何時になくハードボイルド。この時、粉雪のような舞台の紙の雪がちらほらと舞いうのが美しいです。
そうした『父帰る』的なシリアスな家族のペーソスを描く一方で、喜劇的要素も忘れずにバランス良く描写されます。例えば突貫小僧の持つ招き猫の貯金箱。こちらは本筋の間のモノ言わぬサイレントなコメディリリーフとして子供と対で登場します。
もう既にこの時期は小津調サイレント映画(トーキーになっても大して変わりませんが)は完成されていて、モノだけのショットが数学的に配置されます。雨漏りの桶や「六八三」の番号のついた自転車等々、モノだけのショットで状況の差異が物語られます。
『父ありき』みたいな渓流釣りでの反復動作もこの時点で完成されています。ここでも並行に並ぶ人と人との間にカメラが入って見返りポースが。
1935年 ※箱入娘 (67分)
『箱入り娘』に関しては「いつの間にやら笑わせる術が判らなくなっている」と言った喜劇の難しさや、横移動からのロングショットを「山中貞雄なんか案外あすこを褒めてくれるかもしれない」と山中を意識した発言(「小津安二郎全発言」より)もあり、二人がライバル=親友関係にあったことが伺えます。
1935年 『東京の宿』 (80分)
現存する小津最後のサイレント作品です。失業中の喜八が子供達を連れて職探しで彷徨う前半と知り合った母娘の病気の娘の為に罪を犯す後半からなる人情物で、過去作の踏襲も多い作品です。金が無く空想でエア酒盛りやエアお茶漬けするシーンが笑えます。原作ウィンザァト・マネはwithout money の駄洒落とのことらしい。
この映画はまさにファーストカットからサブリミナル的に木製ケーブルドラムが印象的に描写されます。中盤には子供達(兄弟とヒロインの娘の女の子)の遊び場にも登場、そして更に後半では病気になってその遊び場に来れなくなった女の子の不在がケーブルドラムの上に登って待つ兄弟達によって描写されます。
同様に視覚的な伏線として、空気で動くフラダンスのオモチャも中盤の木賃宿でサブリミナル的に使われます。これは後に病院のベッド脇に病気の女の子と供に描写されます。
そしてこの深刻な病院のシーンに入る廊下のショットは小津映画には珍しく画面奥方向への縦移動となるドリーショットです。
あと、ネーミングセンスはさておいて「クラブ歯磨」のネオンサインが米犯罪映画のように喜八の逃亡時に描写されるのですが、これがまんま『非常線の女』の流用(笑)。
セットの使い回しなのか、没過去映像の使い回しなのかは分かりませんが、どうなんでしょう。花火シーンもどこかの使い回しかもしれません。という事で結構合理的で省エネな作りなサイレント時代の小津先生です。
1936年 ※大学よいとこ (86分)
一度暗すぎるという理由でボツになった企画らしいが、復活。しかし現存していない。
その後小津先生は『鏡獅子』(1936年)という六代目尾上菊五郎の歌舞伎舞台を捉えた短編ドキュメンタリーよりトーキー時代に入ります。
ということで以上『小津安二郎のサイレント時代 ~萌えモダニズムと見返り美人の韻画リズム~』、
長々と失礼いたしました。