イーストウッドの新作が劇場公開されないという異常事態にいよいよ映画の終焉を感じてしまう2024年だけど、ジョン・フォードの『深紅の血汐/Scarlet Drop』(1918)が100年以上振りに南米チリで発見されるという信じがたくも胸躍るニュースもあったのだから、「希望は残っているよ どんな時にもね」の精神でイーストウッドの新作を待ち続けたい(コッポラも)。
『狂気の愛/L'amour fou』(1969)
ネガ焼失のため現存プリントからの4Kレストア。役者を介した演劇⇄映画の相互干渉、TVクルーのリハーサル撮影による16ミリ⇄35ミリ本編、ラジオ/楽器/効果音⇄劇伴、フィクション⇄ドキュメンタリーがインタラクティブにリアルタイム生成されるリヴェット節炸裂な傑作。
更に鏡の効果により美しさが増幅されるビュル・オジェ。彼女の代表作と言える程の素晴らしさなのでスクリーンで見れる日が来るのを待ちたい。
『瞳をとじて』(2023)
『ミツバチのささやき』(1973)のきっちり半世紀後にそのセルフリファレンスが再現されるのだから、映画というものは途方も無い時間芸術で、まるでリュミエールのグラン・カフェの最初の上映からドライヤー的な奇跡を経てフィルム映画史のレクイエムに立ち会うかの如きオデッセイ。
『ショーイング・アップ』(2022)
ブレッソン並みに繊細な音響設計がなされている点でバルタザール同様鳴く動物が主役級に重要な存在となる日常コメディ。神経症的な数々の伏線がクライマックスで爆発する前にストンと収束させる構成が素晴らしく、男性的な神経症暴力映画と一線を画す流石のライカート。
『Chime』(2024)
料理教室というおよそホラーとは無縁と思える舞台装置に対して、ステンレスのオーブンやキッチンに中央線電車の光と影の照明を何度も通過させる事と、電波な事を言う人をカーペンター的に立たせるだけで尋常ならざる雰囲気のホラー空間として映画的発明を創出してしまう流石の黒沢清。
『ビートルジュース ビートルジュース』(2024)
デ・パルマが『キャリー』(1976)でヒッチコック『めまい』(1958)の360度旋回抱擁を引用し、更にティム・バートンがそれを(ピノ・ドナッジオのテーマ曲込みでエピローグも)引用するのだから、自身の映画的影響に抗えぬ映画的欲望は世代を超えて継承される。
『リュミエール!リュミエール!』 (2024)
アクションにせよパノラマにせよショットのもたらす強靭な魅力は加工が増していくにつれ、その魅力が退化してしまうのでは?という疑惑が1895年から現代に至るまでもたげてしまうのが恐ろしい(ナレーション解説が有難い一方、無声でカタログのまま見た方が素晴らしいであろうことがその証明になる)
『シビル・ウォー アメリカ最後の日』(2024)
『地獄の黙示録』が合衆国のジ・エンドなら、更に本作の合衆国内戦はスーサイドという主題の選曲センスが良い(デ・ラ・ソウルも)。『エクス・マキナ』もそうだけど少し先の未来を冷徹にシミュレートして見せてくれる聡明さがアレックス・ガーランドの魅力。
『悪は存在しない』(2023)
直近の3作が非常に分かりやすい作りだったので油断していたが、時系列的に考えるとおかしな勝負カットが突然挿入される異化効果の咀嚼にいまだ戸惑っている。『GIFT』(2023)を先に見て余りピンと来なかったのだが、こちらを先に見るべきだったかと思う次第。
すべての夜を思いだす(2022)
3人の女性(兵藤公美、大場みなみ、見上愛)が交わったり交わらなかったりすれ違ったりすれ違わなかったりがリヴェット『パリでかくれんぼ』というか『多摩ニュータウンでかくれんぼ』の如し。ドラマ性を排した日常のスローな世界観がセッション的な音楽/ダンス達と相まってそこはかとないエモさを醸し出すのが素晴らしい。
『ONE PIECE FAN LETTER』(2024/TV Short)
石谷恵さんという才能ある素晴らしいアニメーション監督の誕生を留めるために(映画じゃないけど)ここに記しておく。今年見たアニメーションの中で一番アニメーションらしく躍動するアニメーションだった。