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『モーゼとアロン(1975年) 』~ストローブ=ユイレによるシンクロ率100%の過激な歌劇~

映画 音楽 1970年代 フランス映画

過激な音楽映画というと皆さんはどのような映画を思い浮かべるでしょうか。

レックス・コックスの『レポマン(1984)』や『シド・アンド・ナンシー(1986)』のようなパンクな映画、アラン・パーカーの『ピンクフロイド ザ・ウォール(1982)』のようなMTVっぽいプログレな映画、『ロッキー・ホラー・ショー(1975)』のようなグラムロックミュージカル映画タランティーノの『パルプ・フィクション(1994)』のようなサーフミュージック等々がDJよろしくサンプリングされた映画といった刺激の強い音楽の映画を想像されるかもしれませんが、今回ご紹介するストローブ=ユイレの『モーゼとアロン』という映画にはそのような刺激の強い音楽は一切ございません。

シェーンベルクのクラシックな歌劇(オペラ)ですからね。正直言ってどちらかというと僕にとっては退屈な音楽です。

ではなぜそのような映画が上記の映画とは別の次元で過激な音楽映画なのかということに関して記してみたいと思います。


音楽の為に映像を捨てる?

ここで言う過激な音楽映画というのはこの映画を作成する際に使われた方法論になります。どのような方法論かと一言で申しますとそれは「音の為に映像を捨ててもよい」ということになります。

映画においてどのように映像と音楽の主従関係を持たせるかとい事に関してはトーキー以降様々な試みがなされてきていますが、この映画に関しては徹底して音楽が主で映像が従の関係になっています。つまり音の為には映像を捨ててもよいというスタンスです。この発言自体はロベール・ブレッソンによるものですが、ストローブ=ユイレも同様に厳しいスタンスでこの歌劇を演出します。具体的には以下になります。

  • 歌およびセリフは実際のオペラ歌手による同時録音とする。
  • 歌およびセリフがある間は譜面に即してカットを割る(必然的に長回しが多くなります)。
  • 舞台を野外円形劇場に限定。カメラは固定を基本とし、移動およびパンは歌およびセリフに準じる。

つまり映画としての画面構成を極度にシンプルにして、全て歌劇に登場する人物の歌およびセリフを忠実に再現することを良しとする音楽原理主義による演出です。

特に同時録音に関しては徹底しており、撮影時には劇場の近くにあるイタリア空軍基地に騒音がでないようにジェット機の演習を行わないよう要請したというほどの徹底ぶりです*1(そんな要請通るのか?)。

まさに音楽が生まれる瞬間を演者とのシンクロ率100%の状態でフィルムに収めるというのがこの映画の目的ですので、それ以外の一般的な映画の技法(人物の切り返しショットやモンタージュ)は徹底的に排除されています。

これはまさに本作にさかのぼること8年前に製作された『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記(1967)』と同じ手法といえます。グスタフ・レオンハルトニコラウス・アーノンクールが出演するこの映画を製作するにあたってストローブ=ユイレレオンハルトの実際の古楽器演奏にこだわり、当初の企画から制作費を捻出するまでの実に10年もの間彼の出演を待って実際の撮影に至ったということです。

まずは実際の歌手や演奏家によって奏でられる音楽を同時録音でフィルムに収めること。まさに音楽が生まれる瞬間がドキュメント的に捉えられているのですが、この映画は単なるドキュメンタリー映画といえるのでしょうか?いや、違います。確かに音楽が生まれる瞬間自体はドキュメンタリー的なのですが、その捉え方は事前に周到に準備され、綿密な演出が施されていいるからです。

ここでいう演出とはカメラの位置、カットの割り方、人物の配置といった映画の画面設計として最低限必要な設定です。

例えばAの次にBが歌いだすという場面ではまず歌っているAをとらえたショットから、Aが歌い終わるとカメラがパンしてBをとらえてBが歌いだすという感じです。つまりAとBは事前に人物の配置が決定づけられており、歌に合わせてカメラをパンして被写体を捕らえるという演出が事前に決められたまま進行している事がわかります。

またアロンが「この杖があなたたちを導くのだ」と言って杖を投げると「見るがよい、蛇だ!」といった次のカットでは実際に蛇がにょろにょろと動き出すカットに切り替わるのも同様に事前に決められた通りの演出と言ってよいでしょう。

こうした歌やその内容に合した演出は譜面読みの段階で全てストローブ=ユイレによって綿密に検討されていたということです。まるでメリエスの『月世界旅行』のようなあらかじめ準備された舞台装置の上で、リュミエールの『工場の出口』が撮影されているようなものですね。メリエスのように撮るか、リュミエールのように撮るかというのは映画を撮る際の二大方法論ですが、この全く異なる二つの方法論を止揚しているのがこの監督の過激でユニークなところです。


未完成の第三幕

さて、この映画は聖書の出エジプト記を題材(セシル・B・デミルの『十戒』やリドリー・スコットの『エクソダス 神と王』と同じです。ちゃんと燃える柴十戒金の偶像も出てきます)としたシェーンベルク三幕物の歌劇です。三幕物なのですがシェーンベルクは第三幕を作曲することなく未完のまま亡くなっています。ここまで忠実に音楽原理主義で『モーゼとアロン』を再現してきたストローブ=ユイレが第三幕をどのような形で幕引きするのか?音楽の為に映像を捨ててきた映画に元となる音楽が存在しない場合、その主従関係に一体何が起こるのか?。ネタバレになりますので詳しくは申しませんが、この映画の最後には真摯な映画作家のみが起こしうる奇跡的な映画的瞬間が訪れるとだけ申しておきます。

  

*1:DVDブックレット内の"ストローブ=ユイレの『モーゼとアロン』"より


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