『祇園の姉妹/Sisters of the Gion(1936年)』〜溝口健二監督の女性ハードボイルド・和風ノワール映画

フィルム・ノワール及びハードボイルド映画というと1941年の『マルタの鷹』を起源とすることが多いようですが、それに遡る事5年前の昭和11年の日本において女性を主人公としたハードボイルド映画が存在していたことをご存知でしょうか?。それが今回ご紹介する1936年製作『祇園の姉妹』という山田五十鈴主演の溝口健二監督作品です。

一般的には男性に翻弄される芸妓の悲喜劇的人間模様を描いた作品として扱れているかと思いますが(まぁ、その通りなのですが)、この映画は山田五十鈴ファム・ファタールとして欲望に駆られた男性達を翻弄するフィルム・ノワールであり、『マルタの鷹』のハンフリー・ボガートダシール・ハメットの『血の収穫』やその翻案である黒澤明の『用心棒』の主人公のように状況を常に自分の都合の良いように誘導してリアルタイムに物語が改変されていくのを楽しむハードボイルド映画でもあるのです。  
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溝口健二に関して

溝口は1898年(明治31年)の東京生まれ。大工の父親の元に三人姉弟の真ん中生まれで、若い頃は絵師に弟子入りしたり洋画を学んだり浅草オペラや落語や講談、外国・日本文学に耽溺したそうです。1920年に俳優志願(!)で日活向島撮影所に出入りするうちに助監督になり、1923年に監督デビューしています(以上wiki情報ですが前々回扱ったフリッツ・ラングエイゼンシュタイン同様、建築関連の家に生まれて後に美術に興味を持って映画界入りというのが偶然といえども時代性というか共通していて興味深いです) 
溝口というと日本映画界を代表するトップクラスの巨匠であり、ゴダール(※)から最近のマーティン・スコセッシの『沈黙‐サイレンス‐』に至るまで世界的な映画作家に直接的な影響を与え続けている監督です。
生涯に86本(溝口健二監督作品リストを参照)もの作品を撮っていますが、その初期作品は残念な事に現存するものが少なく、現在ではで36本しか残っていません(ですので失われた作品に関しては淀川さんの「映画は語る」のような本を読んで激しく嫉妬するしか現状なす術はありません)。
この作品に関しても本来は95分の上映時間のうち、69分しか見る事が出来ません。しかしながら現存するこの69分の映画のどこのカットを切っても、溝口の斬新な才能と美学とこだわりの執念が溢れ出す圧倒的な強度を持った傑作と呼ぶにふさわしい映画だという事が分かります。 
 
<(※)溝口のお墓参りをするゴダール(1966年)。好きな監督を三人と聞かれて「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」と答えた話は有名>

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祇園の姉妹/Sisters of the Gion

まずこの映画にはそのファースト・カットから驚かされます。軽快なオープニングタイトルバックの音楽とは裏腹に事業に失敗した木綿問屋の”古沢”はんの家財道具が競売にかけられている殺伐とした光景が、まるで絵巻物のような滑らかな横スクロールの移動撮影(及びパン)でその日本家屋の中を現実の部屋の中を隅々まで見渡すかのようなパノラミックな長廻しによって捉えられます。
この冒頭のシーンだけでももう何か只ならぬ異様な溝口時空の映画空間に引き込まれてしまいます。
そしてこの溝口のお家芸ともいえる長廻しに関してですが筈見恒夫との芸談においてこれは人間の心理を盛り上げていきたいから、ああいう手法を自然に選んだのだと以下のように語っています(*1)。

一つの構図の動きの中で人間の心理が盛り上がってくる。そいつをカットして、ポツンと切るのが惜しくなるんだ。そのまま押せるだけ押していきたい。それが、ああいう手法になったんで、特に意識したり、奇をてらったりしたわけじゃない。 

この言葉は非常に興味深いです。まるで現実虚構(つまり映画)の区別のつかない偏執狂的に凝り性な映画狂人現実に嫉妬して、自身の映画の中に人間そのものを閉じ込めて再現しようと虚構を限りなく現実に近づけようとする映画的欲望の結果が溝口時空の正体という風に僕には思えるからです。
そして官僚的なお仕事的にワンシーンをワンカットで撮るというのではなく、人間の心理でカットの長さが決まるという事も溝口の映画を見れば納得できる特徴です。
さて、映画の方ですが、”嫁入り道具が売られるとは思いもしなんだ”と愚痴る奥方を尻目に”わしはおまえと一緒に国に帰らへんでぇ”と外に飛び出て祇園の色町に向かう”古沢”はんですが、この日本家屋のセットから切り替わる京都のロケーションがまた素晴らしいです。
細い京都の裏通りを縦の構図に捉え、花と番茶売りの掛け声が聞こえたり、着物姿の通行人とすれ違ったりする薄暗い路地の通りをスポット的にあたる陽の日差しと建物の影の中を通り抜けて移動するのがなんとも和風ノワールな雰囲気です。
そしてこの映画の魅力はなんといっても芸妓姉妹の妹役で”おもちゃ”という役名を演じる当時19歳の山田五十鈴です。まずは彼女の登場シーンが素晴らしいです。
あくびをしながらシュミーズ姿で京都弁を喋りながら歯磨きしたり髪をとかしたり、化粧をしたり服を着たり牛乳を飲んだりという日常芝居をするという一度見たら忘れる事が出来ない強烈な印象を残すシーンで登場します。

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そして破産した”古沢”はんを居候させると言い出した義理を重んじる姉とは対照的に「男はんちゅう男はんはみんなわてらの仇(かたき)や、にっくいにっくい敵や!それこそわてら、男はんちゅうのをひどい目にあわせたってもええのや、いいや、あわしちゃる!」というなんかタランティーノの登場人物みたいにすぐにでもキルビルしそうなバイオレンスなセリフを早口の京都弁でまくし立てるのです。
いやーしびれますね。カッコいいです。これホントに1936年の映画?という感じのハードボイルドなモダンガールぶりです。彼女は傾向主義的とも言われている悲劇的なラストに至るまでこの苛烈でハードボイルドなヒロインを演じます。

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しかもさらにこのバイオレントでハードボイルドでファム・ファタールなヒロインが口八丁手八丁で男をたぶらかすのがさらにこの映画の喜劇的ともいえる側面の面白さで、山田五十鈴のコメディエンヌぶりと溝口演出の巧みさを存分に堪能できます。
中でも何回みても笑ってしまうのが、呉服屋の旦那が奉公人の”木村”はんが”おもちゃ”に貢いだ反物を取り返そうと諫めに乗り込んできたのが、話を聞くうちに徐々に彼女に懐柔されてしまうシーンです。
最初玄関近くに座っていたのが「こっちきて一杯どうどす。茶茶(ぶぶ)がわりどすさかいに。それにだぁれもいやしませんし。」といってビールを差し出されて部屋の奥の長火鉢のところに誘導され、いつの間にか羽織を脱がされ、家着の丹前まで着せられて挙げ句の果てには”おもちゃ”のパトロンにされてしまうという抱腹絶倒のシーンです。
このシーンは山田五十鈴の京都弁の妙もさることながら、玄関先から部屋の奥まで自在に収縮する溝口時空の空間設計も素晴らしいです。 

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といった感じで生き生きとした京都弁と役者の演技、入念に設計された日本家屋内の空間演出とそれに対比されるように開放的でみずみずしい屋外のロケーションとノワールな路地裏、とどれをとっても素晴らしい映画です。

さすが公開時のキネ旬1位及び1959年の「日本映画60年を代表する最高作品ベストテン」において第2位に選ばれた作品です。しかしそういう歴史的な一時点の評価が意味を成さないほどまでに溝口と山田五十鈴が作り出した映画空間が時空を超えて今現在のこの時空に迫ってくるというのがこの映画の時代を超えた魅力です。

 

(※↓の4枚組の海外版BDはリージョンBでワーニングが出ますが、うちのパナのレコーダーでは字幕オフで試聴可能でした)

*1:溝口健二著作集」2013年 有限会社オムロ


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