『銃撃(1966年)』 〜 モンテ・ヘルマンによる一卵性双生西部劇二本立て②:銃撃編

『銃撃』 ~ 条理ある行動の彼方に

一般的には不条理で難解な「反=西部劇」と見做されることが多いこの映画ですが、ヘルマン本人も否定しているようにもちろんそれは誤解であります。

まず登場人物達の行動の動機は映画の冒頭部分にセリフ等で示されますし、それは条理ある行動原理となります。にも関わらずこの映画(及びそのラスト)が難解で不条理と言われてしまうのは、人は映画の終盤部分になると冒頭部分に語られていた伏線的な説明セリフなど(特に意識して見ないと)すっかり忘れてしまっているか、そもそも最初から記憶していないからです。現在進行形の出来事に目を取られ、あらゆる事象は過去に追いやられて振り返る事なく前に進むのが小説や漫画とは違う映画というメディアの宿命ですのでそれはある意味当然な事なのですが、何度か見返すことによってこの点に関しての誤解は解けるかと思います。

さらにもう一点こちらが本題になるのですが、この映画が難解だと思われる要因は、それが『キー・ラーゴ(48年)』や『三つ数えろ(46年)』のようなハードボイルド映画の主人公達のように行動のみによって関係性が変化するのを写実主義に描写するだけで、いわゆる一般的なストーリーテリングを行わないという点です。

例えば名前すら明かさない謎の女が試し撃ちなのかやたらめったら銃をぶっ放すシーンが映画の前半に何度かありますが、これは仲間に自分の位置を知らせるという条理ある行動である事が映画の中盤で判明します。女が銃を撃った後、すぐさま仲間がそれに気づくシーンでもあれば普通のストーリーテリングとして消化されるのですが、そういう説明的なシーンは(中盤には全て判明するものの)一切省略されています。つまり予測可能なステレオタイプ的な描写(例えば死亡フラグ的なモノ)は可能な限り避けるという演出原則をヘルマンがとっており、必要最低限な行動のみしか描写されないため、条理ある行いが不条理だと勘違いされてしまうという一例です。

ちなみに余談ですがヘルマンによると『キー・ラーゴ』はコーマンのお気に入りで、彼はこの映画の無数のバージョンを異なるモンスターを加えて製作・監督してきたそうです(『魔の谷』もその一つ)。この映画が『エピタフ』のように中止されることなくこの世に生み出されたのは、よりプロデューサーの趣味に合致した『キー・ラーゴ』的な映画だったからなのかもしれません。

話を戻すしますとさらにこの映画の関係性の変化は以下二つの点でもたらされます。

一点目はもちろんその登場人物からです。まずそれは映画の序盤に登場するマカロニ版のイーストウッドのような黒づくめの謎の女、ミリー・パーキンスによってもたらされます。彼女の出現(この登場シーンはすごくかっこいいです)によって 二人の男達の関係性が決定的に変化します。そして映画の中盤からは同じ役目がジャック・ニコルソン演じる黒づくめの謎の男によってもたらされます。またしても彼の出現によって二人の男達の関係と運命が決定づけられます。

二点目は誰がを持つのかという点です。当然を持つ者と持たざる者では関係の優位性が違います。アンソニー・マンの『ウィンチェスター銃’73(50年)』のように登場人物内で物理的に推移するの遷移を注意深く見守る必要があります。そして最終的にが撃たれる(Shootingされる)時、登場人物達に決定的な運命の瞬間が訪れます。

という訳でこの映画は「=西部劇」ではなく「=ハードボイルド西部劇」と捉えると分かりやすいのではないでしょうか(正確には分かりにくい理由が分かりやすくなるだけなんですけどね)。

尚、ほぼ固定のワンカメラで撮られたこの映画の序盤部分に、一発の銃声からキャメラと登場人物が逆方向に移動して映画が走り出すという素晴らしい移動ショットがあります。コメンタリーによるとこのショットは主演のウォーレン・オーツのアイデアをヘルマンが気に入って採用したシーンだそうです。いかにも俳優達と共犯関係を築くヘルマン映画らしいエピソードですね。

(③へと続く) 

 


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