今回のスピンオフの話はさておいて、1933年のオリジナル版キングコングを見返すとこれが今みても大層生々しいタッチ、かつ暴力的(象のように人を踏み、虎かはたまた進撃の巨人みたいに人を食らいます)で矢鱈滅多らと面白い事に驚かされます。
なぜこんなに面白いのだろうといろいろ調べてみたところ、なるほど!ザ・ワールド的とも世界不思議発見的とも世界の果てまでイッテQ!的ともいえるとにかく無鉄砲でいかれた冒険野郎達の波乱万丈な人生が垣間見えましたのでそのことに関して少し書いてみます。
≪Merian C. CooperとErnest B. Schoedsack 写真はA Tribute to Merian C. Cooper - Digital Polyphonyより≫≫
カール・デナムとは一体何者なのか?
『キングコング』は「英Total Film誌」の”映画を題材にした映画のベスト50”の13位 に選ばれていることからも有名なように、映画内映画を扱った映画になっています。
夜の埠頭で「なにしろ旅を指揮する奴がいかれてるって話さ。とにかく無鉄砲な男だ。相手がライオンだろうがお構いなしだそうだ」と警備員と俳優エージェントが映画監督のカール・デナムに関して噂話をするシーンからこの映画は始まります。
このクレイジーな冒険家の映画監督、カール・デナムに関して僕は以前どこかでセシル・B・デミルがモデルになっていると読んだことがあったのでずっとデミルのような興行師なんだろうなと思いこんでいたのですが、どうもこれは全くの勘違いだったようです。
というのもこのカール・デナムにはちゃんと明確なモデルが実在していたのです。
果たしてその人物とは一体誰なのか?
答えは簡単です。
実はカール・デナム(及び船員のジャック・ドリスコル)のモデルはメリアン・C・クーパーとアーネスト・B・シュードサック、つまりこの映画の監督そのものだったのです!
ん・・・、当たり前すぎてたいして面白くない?
まぁ、まぁ、ここからが本題です。
しかし、この件を立証するには彼らのバイオグラフィが必要になってくるのですが、日本語の伝記本は出てないわ(←なんで?)、いつも勝手に引用してお世話になっているwiki の記述もたった数行で淡白だわで、ちょっと翻訳された情報が少ないです。
とはいいつつも英語情報は多いので以下かいつまんで簡単に書いてみます。
≪メリアン・C・クーパー(Merian C. Cooper、1893年10月24日 - 1973年4月21日)≫
- 1893年:10月24日、フロリダ州ジャクソンヴィルに生まれる。子供の頃読んだアフリカの物語で冒険家を夢見る。
- 1912年:海軍士官学校に入る。
- 1916年:ジョージア国家警備隊に加わり、アメリカ軍のパンチョ・ビリャ討伐遠征に加わる。その後アトランタの軍事航空学校へ。
- 1917年:以前からの要望であったパイロットへの転属申請が認められ、第一次世界大戦でフランスに配属される。
- 1918年:敵地の奥深くを爆撃の最中にドイツ軍の戦闘機に襲われ、捕虜となるが約二か月で第一次世界大戦が終了。捕虜収容所からフランスに帰還。その後帰国することなくポーランドへの人道的援助を提供したハーバート・フーバーのアメリカ食糧管理に携わりポーランドのガリシア地方の米食品管理局の責任者となる。
- 1919年:3月ソ連の赤軍の侵攻によりポーランドの独立が脅かされるとクーパーはパイロットの義勇軍を設立。飛行隊はソ連に対して大きな戦果を上げ、翌1920年のワルシャワ包囲におけるユゼフ・ピウスツキのフランス軍協力の下の反撃は「ヴィスワ川の奇跡」と呼ばれた。
- 1921年:5月パイロットで最も名誉ある軍事勲章を受ける。その後ポーランドを後にしアメリカに戻りニューヨークタイムスに夜勤で就職。アジア雑誌の依頼で旧友であるアーネスト・B・シュードサックと「ウィズダムII」という帆船で、ソロモンとニューヘブリデス諸島、フィジー、シンガポール、スマトラ、タイ、ベンガル湾、セイロン、インド洋、スーダン、紅海、イラン、アビシニアと世界を旅して記事を書く(この旅で長さ14フィートの巨大なコモド大トカゲに遭遇し、後の生態系の進化から取り残された髑髏島の構想を得る)。
- 1923~25年:クーパーとシュードサックはトルコのアンカラから5万人の人々と動物たちが草原を求めてザクロス山脈やカール川を越えて季節移動するバクティアリ遊牧民のドキュメンタリー映画『地上/GRASS: A NATION'S BATTLE FOR LIFE』を製作する(←ググればネット上で見れます)。
≪以下は水タバコを吸う出発前のメリアン・C・クーパーとアーネスト・B・シュードサックと女性地理学会の創立メンバーの一人で記者・スパイ・映画制作者・翻訳者であったマルグリート・ハリソン≫
- 1926年~27年:パンアメリカン・エアウェイズの設立にフライトディレクターとして携わり、取締役のメンバーとなる。パンナムの在職中、同社はまず、定期的な大西洋横断のサービスを設立した。
- 1927年:半ドキュメンタリー映画『チャング/Chang: A Drama of the Wilderness 』を製作、監督。18ヵ月間ジャングルで過ごす(無鉄砲なことに相手が人食い虎や象だろうがお構いなしに撮影した←ただしクライマックスの象のシーンはセット撮影)。
- 1929年:『四枚の羽根/The Four Feathers』 監督。原作有りのフィクションへ移行。フェイ・レイ出演
- 1932年:『猟奇島/The Most Dangerous Game』を製作。フェイ・レイ出演(ジャングルのセットをキングコングに流用)
- 1933年:『キングコング』製作/監督。 同年RKOスタジオの副社長としてデヴィッド・O・セルズニックを継承し、3年後に「セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズ」の副社長に就任。
- 1939年:旧友のジョン・フォードとアーゴシー・ピクチャーズ(Argosy Pictures)を設立。以下10本の傑作を製作した。
- 『果てなき航路/The Long Voyage Home』(1940年)
- 『逃亡者/The Fugitive』(1947年)
- 『三人の名付け親/3 Godfathers』(1948年)
- 『アパッチ砦/Fort Apache』(1948年)
- 『黄色いリボン/She Wore a Yellow Ribbon 』(1949年)
- 『猿人ジョーヤング/Mighty Joe Young』(1949年)
- 『リオ・グランデの砦/Rio Grande』(1950年)
- 『幌馬車/Wagon Master』(1950年)
- 『静かなる男/The Quiet Man』(1952年)
- 『太陽は光り輝く/The Sun Shines Bright』(1953年)
- 1952年:アーゴシ―ピクチャーズはシネラマ製作のため解消。ニューヨークのブルックリン劇場で『これがシネラマだ』をデモンストレーション上映し、センセーションを起こす。
- 同年オスカーの生涯特別功労賞を受賞。
- 1956年:再度フォードと組んで『捜索者/The Searchers』を製作
- 1963年:『Best of Cinerama』を最後に引退
- 1973年:79歳で死去
(※詳細は以下を参照)
www.americanpolishcooperationsociety.com
≪アーネスト・B・シュードサック(Ernest B. Schoedsack、1893年6月8日 - 1979年12月23日)≫
- 1893年:6月8日、アイオワ州カウンシルブラフスで生まれ(クーパーと同い年)。
- 1914年:マック・セネットのキーストン・スタジオにて映画の仕事に携わる。
- 1916年:第一次世界大戦において通信部隊のカメラマンとして参加。
- 1917年:ウィーンでクーパーに出会う。
- 1918年:ニュース映画のカメラマンとして多くの経験を得て、フランスに駐留。第一次大戦の休戦の調印後もヨーロッパに残り、ロシアに対する戦いでポーランドを支援することを決めた(これもクーパーと同じ)。ポーランドではニュース映画を撮り続ける。またポーランド人数千人がロシアの占領地から脱出するのを助けた。
- 1920年:戦争後はロンドンでカメラマンとして働く。翌21年にかけて希土(ギリシャ=トルコ)戦争で難民を救う。この頃ポーランドで映画監督を目指すクーパーと再会。
- 1921年:ニューヨークポストのカメラマンとなりクーパーと前述の世界一周旅行にパートナーとして同行する。
- 1923~25年:『地上/GRASS: A NATION'S BATTLE FOR LIFE』にカメラマンおよび共同監督して参加。旅は長く危険だったがあらゆる状況を撮影し部族民と旅をした。この映画は非常に成功し、 ロバート・フラハティの『極北の怪異(極北のナヌーク)』に並び称されるドキュメンタリー旅行記のスタイルを決定づける作品となった(アカデミー作品賞にノミネート)。
- 1927年:半ドキュメンタリー映画『チャング/Chang: A Drama of the Wilderness 』をクーパーと共同監督及び撮影。
- 1929年:『四枚の羽根/The Four Feathers』 クーパーと共同監督
- 1931年:『ランゴ/Rango』 監督・製作。森の人オランウータンと凶暴な虎の物語。尚、彼のオフィスにはベンガル虎が急に飛び掛かってきたので仕留めた際の写真が飾ってあったという。
- 1932年:『猟奇島/The Most Dangerous Game』を監督
≪以下は当時の写真≫
- 1933年:『キングコング』製作/監督
- 1933年:『コングの復讐/Son of Kong』 監督
- 1935年:『ポンペイ最後の日/The Last Days of Pompeii』 監督
- 1937年:『モロッコの動乱/Trouble in Morocco』監督
- 1940年:『ドクター・サイクロプス/Dr. Cyclops』監督
- 1949年:『猿人ジョー・ヤング/Mighty Joe Young』 監督
- 1952年:『これがシネラマだ』のプロローグを担当(クレジット無し)。これを最後に引退。
- 1979年:86歳で死去
(※詳細は以下を参照)
Ernest B. Schoedsack - Wikipedia
いかがでしょうか。
つまり要約しますと、若くしてパンチョ・ビリャ討伐遠征に加わり、第一次世界大戦でパイロットとして戦い、ロシア=ポーランド戦争で義勇軍を設立して最高勲章を授与され、ロシアの捕虜収容所から大脱走し、ジャーナリストとして世界一周の旅行記を記し、中東の遊牧民に関するドキュメンタリー映画を撮り、パンナムの設立に関わり取締役となり、ジャングルで人食い虎や象を相手にし、第二次大戦で再びパイロットとして志願し、戦後ジョン・フォードの片腕として数々の傑作を製作しアカデミー賞を受賞した男と、その相棒でカメラマンとして同じ様に第一次世界大戦とロシア=ポーランド戦争、世界一周やドキュメンタリー映画で世界を駆け巡った人物が『キングコング』の監督達なのです。
まるでエドガー・ライス・バローズやヘンリー・ライダー・ハガードの描くパルプフィクションの主人公みたいな ” 華麗なるヒコーキ野郎”と”カメラを持った男”の冒険野郎コンビではないでしょうか。
まったくカール・デナム以上に無鉄砲で波乱万丈な人たちですけど、この人たちだからこそ、あのエキゾチックでドキュメンタリーのような生々しいタッチと象のように人を踏み虎のように人を食らうコングの暴力的な野獣性、及びラストのヒコーキとコングの空中戦が生まれたのだと思います(ちなみに二人はコングを打ち落とす複葉機のパイロットで出演しているらしいです)。
ということで彼らの経歴をみればキングコングという映画は1933年に突然変異的に生まれたのではなくて二人の冒険家の冒険の過程、及びサイレントからトーキー、ドキュメンタリーからフィクション、といった映画史の流れの中で必然的に生まれた作品だということがわかります(たとえ『キングコング』がなくてもその初期作品だけでも彼らは映画史に名を残していたことでしょう)。
以上『キングコング(1933年)』 カール・デナムとは一体何者なのか? ” 華麗なるヒコーキ野郎”と”カメラを持った男”の物語 でした。
(映画の話は次回書く予定です)